1月18日発信の、このスポーツアドバンテージで執筆している松原明氏の「殿堂入りの明暗」を読んだ私は、同じ感想を抱いた。 たしかに日本では通算254勝をあげ、400勝の金田正一に次ぐ左腕投手の梶本隆夫が、今だ野球殿堂入りしていないのは不思議だ。日本の野球殿堂入りを決める選考委員たち(野球記者歴15年以上の経験者で、今回は298人の記者が投票権を持つ)は、どんな見識を持っているのか?納得できない。だったらオールスター戦出場選手を選ぶようにファン投票の形式を採用し、選考すればいいではないか、と思ってしまう。 松原氏の原稿を読んだ私の脳裏には、いろんな思いが込み上げてきた。
そして私は、野口務さんを思い出さずにはいられなかった。はたして「野口務」という名前を知っている野球記者は何人いるのだろうか、と考えてしまった―。 24年前になる。私は、生前の野口さんを集中的に取材したことがある。あの長嶋茂雄が放ったサヨナラホーマーで決着がついた1959年(昭和34年)6月25日に行われた“天覧試合”を実現させるため、プロ野球側の裏方として宮内庁側と折衝。奔走したのが野口さんであり、あの正力松太郎の黒子的存在だった。 野口さんは、職業野球といわれた戦前のプロ野球の夜明けから亡くなるまで、その人生をプロ野球に捧げた男であり、プロ野球界に遺した功績は大きい。 1934年(昭和9年)6月。現在の巨人の母体となる「株式会社大日本東京野球倶楽部」が発足するが、同時に野口さんは、正力松太郎に請われて入社。この年の秋、ベーブ・ルースやルー・ゲーリック、ジミー・フォックスなどスーパースターたちがメンバー入りしているオール・アメリカン・チームが来日しているが、その日程編成や全日本軍の結成などの業務をしていたのが野口さんだった。 その2年後の36年1月に「日本職業野球連盟」が発足し、4月に職業野球の初めての綱領が発表された。その綱領を起草したのが京都帝国大学法学部出身の野口さんだった。 40年(昭和15年)から43年まで、野口さんは30歳半ばにして巨人の球団代表を務める一方、連盟の理事として戦時中のプロ野球を支えた。さらに戦後の48年、プロ野球は文部省より社団法人として認可され「社団法人日本野球連盟」が創設された。いわば戦前のヤクザ者の商売と陰口を叩かれていた職業野球時代から脱皮。初めてプロ野球が世間にスポーツとして認知されたのだが、このときも文部省とプロ野球のパイプ役として奔走したのが野口さんだった。 野口さんは、その温厚な性格のためだろう。けっして表にしゃしゃり出ることはなかった。
「岡くん、僕にとってのプロ野球は、プロフェッショナルの“プロ”じゃないんだよ。プロレタリアの“プロ”なんだ。僕の人生は、酒を愛し、女性を愛し、ロマンを愛する。人生、これがなくなったらお仕舞いだな・・・」 13年前の1993年3月。野口さんは、87歳で鬼籍に入った。しかし、今では野口さんがプロ野球界に遺した功績を知る者は少ないだろう。だからこそ「野口務」という名前だけでも脳裏に刻んで欲しいのだ。もちろん、野口さん以外にも野球界で目に見えない功績を遺した野球人は多い。その人たちを私たちは忘れてはいけない・・・。 この1月10日。松原さんが記したように選考委員の投票によって野球殿堂入りを果たした5人は、今年7月のオールスター戦の際に表彰され、東京ドーム内にある野球体育博物館に掲額されるレリーフが除幕されるという。これで殿堂入りを果たした野球人は159人に及ぶ。 そういえば、最後に思い出した。日本の野球殿堂といわれる野球体育博物館は、天覧試合が行われた前月の5月に開館しているが、この建設に当たっても野口さんの存在が大きかった。当時の文部省の体育局長は、学生時代の野口さんの友人だったからだ。 |