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vol.305-1(2006年 6月14日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト

「心の育成」と体罰の関係
   〜高校野球指導者アンケートから〜

 6月5日付の朝日新聞に、「高校野球の指導者アンケート」の結果が紹介されていた。生徒指導を中心にしたアンケートで、全国の指導者2528人を対象にしたものだ。

 レポートの前文に「『心の育成』に重きを置く高校野球の指導現場で、体罰は少なくなる兆しも見せているが、『愛のムチ』という考え方も根強く残っている」とまず書いているように、体罰主義はなお克服されていない。

 指導の中で体罰をしたことがある人が70%。体罰は「やむを得ない」「必要」と容認する指導者が60%、許されないは39%。体罰容認派で実際に体罰をふるったことがある人は81%を占め、「許されない」派の人でも、52%の人は体罰経験をもっていた。

 もう一つ、注目する数字があった。指導者が現役時代、体罰を受けたことのある人は65%、「ない」は34%。そして体罰を経験した人の81%が指導者として体罰をふるった経験をもち、「ふるったことはない」の18%を大きく上回った。体罰をうけたことのない人でも、指導者となったときふるったことがある人は47%となっている。

 高校時代にうけた体罰の体験が「自分のためになった」と感じている人は81%、そのうち体罰をふるった人は85%。つまり、体罰を肯定的にうけとめた人ほど、自らも生徒に体罰をした割合が高くなっている。

 高校野球と体罰は、切っても切れない密接な関係にあり、指導者はもちろん、多分、社会全体でも肯定的に受け止められているようだ。

 この体罰が「技術向上」のためではなく、「心の育成」のために行われているのが特徴だ。「心の育成」という大義名分、正義の立場から体罰が正当化されているのだ。だからこそ、体罰の連鎖はいつまでも断ち切られることがない。

 スポーツは楽しむためにやる、のではなくて、心の育成という教育(学校教育を越えた人間教育)の一環として行われるかぎり、「愛のムチ」はなくならないだろう。私のムチは愛そのものだ、と思い込む指導者はあとをたたないだろう。

 若いフランス人で日本文学研究のために来日して長く滞在している女性が、ある座談会で「日本の少年院は随分開放的ですね」と発言し、日本人が「あなたの住んでいる町に少年院はないはずだけど」「でも、毎日、丸坊主で同じトレーナーを着た少年たちが、掛け声をかけながら街を走っています」「ああ、それは中学か高校のスポーツのクラブ活動ですよ」―というくだりがあった。

 こういう女性が学校スポーツのクラブ活動の中で、体罰がまかり通っていると知ったら、仰天するにちがいない。

 指導者には「心の育成」のために生徒を指導するのが第一目標だ、と考えてほしくない。何よりも体のことをよく知ること、体をきたえながら技術を身につけて、さらに体をよく知っていくこと、ものごとは体得ということが大事であること、などを練習を通して、まさに体得させるように生徒を指導してもらえたらそれで十分だ。

 心を特別扱いし、心の育成などと口に出すことに照れはないのだろうか。カッとして、思わず手が出た、のなら分かる。「愛のムチ」という、計算されたかの如き暴力は、気持がわるい。

 私は、イチローが50歳まで野球をつづけたい、と発言していることに注目する。クレメンスやモイヤー、工藤投手たちが、43歳になってもなお現役投手として活躍することに注目する。人生80年時代、彼らはスポーツ人としての人生のピークを、どのあたりに置こうとしてきたのだろうか。甲子園は通過点に過ぎない。指導者は人生80年時代を視野に入れて、生徒たちの体と技の鍛錬に力を貸す存在であってほしい。体と技を育てることが、いつか心につながる。そのくらいの確信があればよい。心の育成を目的にしてほしくない。

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