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vol.316-1(2006年 8月29日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
作家・金井美恵子さんのW杯報道批判

 作家の金井美恵子さんが今回のW杯サッカーのマスコミ報道について、痛烈な批判を書いている。(朝日新聞社刊の読書PR誌「一冊の本」8月号・9月号)

 94歳の医師・日野原重明さんが朝日新聞の連載エッセイで「今回の日本代表戦について日本の記者たちは、もう少し辛口のコメントを発表する勇気があってもよかったのでは」と書いた文章を援用しながらの批判だ。日野原さんはかつて、よど号ハイジャック事件のときの乗客の一人で、あのときの乗客の心理状態についてのマスコミ報道が、あまりにも実態とかけはなれていた、という経験をもっている。

 日野原さんは、「成人病という名称を生活態度の無知と無防備に原因を帰した生活習慣病と改名した」名高い医師。それにちなんで「日本代表報道は報道ではなく、ジャーナリズムの生活習慣病」だと、金井さんは書く。

 ゴールが決まれば「ロナウドオオオオッ!」「タマダアアアアアアッ!」と叫ぶしかないNHKの絶叫実況アナウンサー、「久保をはずして巻を選んだジーコを<宮本武蔵の「十智」にある「変」のやり方>だと、すっかり剣術使いのお侍気分になりきって評価した」作家・藤沢周さん、中田英寿選手がブラジル戦に敗れたあと、センター・サークルに倒れこんだまま動かなかったシーンについて、「『私は、彼が命を絶ったりはしないかと、半ば本気で心配していた』と、なんかこう『衆道』という言葉が思わず浮かぶコメントを寄せているスポーツ・ライター屈指のセンチメンタリストの一人、金子達仁」など、当たるを幸いバッタバッタと斬り捨てる。

 これは取材で現場に行くことはないお茶の間テレビ批評家の特権で、その特権をフル活用した痛快さである。

 “生活習慣病報道体制”の中で、孤高を保ってきたかに見える中田英寿についても「フットボール・プレイヤーとしてのピークがいつだったのかさえ、試合をふり返ってみれば曖昧なので、引退をきっかけに映し出されるピッチでの雄姿の映像が極端に少ない孤高のけなげなヒーローは、ヨーロッパ・サッカーの反映を浴びつつ、スポーツ・ビジネス業界と生活習慣病体制報道の空間で『オーラ』をまとっていたのであろう」と、まことに手厳しい。

 こういう痛烈痛快批判を読むと、つい私もそれに悪乗りするかたちで、そういえば「侍ブルー」というネーミングが悪かったかもしれない、江戸時代の侍は大半は御身大切のサラリーマンで、戦う集団とすれば、野武士とか山賊、比叡山の荒法師、などの方がよかったかな、などと余計なことも考えた。

 それにしても、スポーツ報道・評論はむずかしい時代になってきた。サッカーがサッカーという小さな世界だけの存在でなくなり、広い社会的事象となってきたことによる。もうひとつは、テレビという希望的観測報道機器でかつスーパー興奮誘発装置の出現・定着だろう。文字メディアは、取材する人間の鋭い観察力と豊富な記憶にもとづく批評力が生命だ。肉眼と記憶、そして、サッカーだけでなく、広く社会、歴史に対する考察力をも必要とする。サッカーの周辺への目配りだ。

 テレビ映像はそんなものと無関係だ。記憶なきカメラの目の観察力だけの世界である。圧倒的な映像力である。乾いたカメラの目を“補助”するテレビ関係者―アナウンサー、解説者、ディレクターの役割をあらためて考えるときだ。主役はカメラ、人間は脇役、というメディアが、ますます暴れる時代を迎えた。人間はいぶし銀のような脇役の芸を磨くこと。しかし、「ロナウドオオオオッ!」という絶叫は、脇役となった人間の悲鳴かもしれないのである。

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