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vol.322-1(2006年10月11日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
女子砲丸投げの森千夏選手を悼む

 8月9日、2004年のアテネ五輪で女子砲丸投げ日本代表となった森千夏さんが、虫垂がんのため26歳の若さで亡くなった。18m22の日本記録は、世界へあと一歩だった。2008年の北京五輪を目指していたが、治療が長びきそうだと分かると、その次のロンドン五輪に目標を変えたり、最後までオリンピックでメダルを!と強い気持ちを持ちつづけたという。

 母校・東京高校の恩師・小林隆雄さん(陸上競技部顧問)が、哀悼の手記を東京新聞(9月2日付)に寄せている。

 「日本陸上界の『アンパンマン』。向日葵のような明るさで、競技場では甲高い雄たけびとともに砲丸を投げてきた。'08年北京五輪でのメダル獲得の夢を抱いていたが、病魔に襲われ、志半ばで倒れた。・・・入院中もビデオを分析し復帰後の計画を作成していた。アテネでの失敗を次の五輪でリベンジすべく。森の無念さを考えると、残された指導者としては18m22の日本記録を持つ森を超える選手の育成が供養だと思う。後輩たちに森の歩んできた道程を知ってもらい、五輪でその記録を更新してもらいたい。その時にこそ、森の偉大さが証明されると確信している。・・・」恩師のあたたかい思いが惻々として伝わってくる。私は一度も森選手の試合は見たことがないのだが、写真で女金時のような彼女の姿を見るにつけ、その夭折が痛ましく思えてくる。

 陸上競技の数ある種目の中で、砲丸投げはもっとも地味な競技だろう。投擲競技はトラック競技や跳躍競技にくらべて、格段に地味だが、その投擲競技の中でも砲丸投げはさらに地味な感じがする。見映えがしない。ヤリ投げ、円盤投げ、ハンマー投げは80mを超す美しい放物線が見られる。滞空時間の長い飛行線を十分に堪能できる。ところが砲丸投げは、4キロの鉄球(女子)を20mほど投げるだけだ。アッという間の落下線。ヤリ、円盤、ハンマーのような飛翔感がなく、砲丸が手から放れたと思うと、ドスンと鈍重に墜落する、という感じなのだ。

 室伏重信さんにハンマー投げに転向するようすすめられたこともあったようだが、彼女はがんとして砲丸投げを貫いた。大きく立派な体格が砲丸投げを選ばせたのだろうが、もっと内心の声も聞いてみたかった。地味で、愚直で、単純で、何の飾りもなく素朴そのものの砲丸投げを、なぜ彼女はこれほどまでに愛したのか、一度聞いてみたかった。

 私の好きな評論家・小林秀雄さんの「私の人生観」という、講演をもとにした長いエッセイがある。その中にこんな一節がある。

 「先日、ロンドンのオリンピックを撮った映画を見てゐたが、その中に、競技する選手達の顔が大きく映し出される場面が沢山出て来たが、私は非常に強い印象を受けた。カメラを意識して愛嬌笑ひをしてゐる女流選手の顔が、砲丸を肩に乗せて構へると、突如として聖者の様な顔に変ります。どの選手の顔も行動を起すや、一種異様な美しい表情を現す。無論人によりいろいろな表情だが、闘志といふ様なものは、どの顔にも少しも現れてをらぬ事を、私は確かめた。闘志などといふ低級なものでは、到底遂行し得ない仕事を遂行する顔である。相手に向ふのではない。そんなものは既に消えてゐる。緊迫した自己の世界に何処までも這入って行かうとする顔である。この映画の初めに、私達は戦ふ、併し征服はしない、といふ文句が出て来たが、その真意を理解したのは選手達だけでせう。選手は、自分の砲丸と戦ふ、自分の肉体と戦ふ、自分の邪念と戦ふ、そして遂に征服する、自己を。かやうな事を選手に教へたものは言葉ではない。凡そ組織化を許されぬ砲丸を投げるといふ手仕事である、芸であります。

 見物人の顔も大きく映し出されるが、これは選手の顔と異様な対照を現す。そこに雑然と映し出されるものは、不安や落膽や期待や昂奮の表情です。投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらゐ醜い顔を作らねばならぬか。彼等は征服すべき自己を持たぬ動物である。座席に縛りつけられた彼等は言ふだろう、私達は戦ふ、併し征服はしない、と。私は彼等に言はう、砲丸が見付からぬ限り、やがて君達は他人を征服しに出掛けるだらう、と。又、戦争が起る様な事があるなら、見物人の側から起るでせう。選手にはそんな暇はない」

 長い引用になってしまったが、もはや森千夏選手の内心の声が聞けなくなった今、小林さんのこの文章をもって、彼女の内心をおしはかってみるしかない。

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