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vol.323-1(2006年10月18日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
円谷幸吉記念館の閉鎖

 今から17年前の1989年は、松尾芭蕉の「奥の細道」300年にあたる年だった。この年から4年かけて、深川をふり出しに、大垣、伊賀上野まで、私は仕事(野菜農家の取材)で奥の細道のあとをたどった。

 途中で立寄った、福島県須賀川市にある十念寺には、芭蕉の「風流のはじめや奥の田うゑ唄」という句碑があった。そのお寺を訪ねてみると、思いがけず円谷幸吉さんの大きなお墓があった。墓石の裏面には円谷選手が出場して優勝した数々の大会や記録が、細かく刻まれていた。

 1964年の東京オリンピックのマラソンで、堂々3位に入賞して国中を沸かせた、あの円谷さんである。4年後、メキシコ・オリンピックの年の1月、プレッシャーに耐えかねて(といわれた)自殺した、あの円谷さんである。

 円谷さんの生まれ育った家が近くにある、と教えられて、すぐに駆けつけた。実家のはなれが円谷幸吉記念館になっていた。庭に「忍耐」と書かれた大きな石碑があった。部屋にはユニフォーム、ゼッケン、ジャンパー、シューズ、メダル、トロフィー、賞状・・・など、数えきれないほどの記念の品々が、所狭しと展示されていた。いかにも手造りの記念館、という感じだった。あの哀切きわまる遺書もあった。

 「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチ美味しゅうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ酒美味しゅうございました。・・・」と肉親への感謝を書いたあと、「父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父上、母上様の側で暮らしとうございました」と結ばれている。

 何回読んでも、涙がこぼれそうになる。

 ノーベル賞作家で、のちに自殺した川端康成さんが、エッセイを残している。「この簡単平易な文章に、あるひは万感をこめた遺書のなかでは、相手ごと食べものごとに繰りかへされる『美味しゅうございました』といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ。・・・ひとへに率直で清らかである。暮れの三十日に帰省したときの円谷選手は、自殺の心をもうかためてゐたかどうかはわからないが、自殺の思ひはおそらくあったであらう。その古里で肉親たちからもてなされた古里の食べものを、その肉親の名を呼んで、『美味しゅうございました』と、ただそれだけを別れの言葉に遺した。千万言もつくせぬ哀切である」

 記念館の入口には芳名録が置かれていた。開館当時はたくさんの人がつめかけたにちがいないが、円谷さんが亡くなって20年を過ぎて、芳名録をめくってみると、最新のサインからその前のサインの間に、何ヶ月もの時間が流れていた。訪れる人もめっきり減ってしまったのだ。去る者、日々にうとし、である。

 10月14日付朝日新聞は、13日、この円谷幸吉記念館が「事実上閉館した」と伝えている。「40年近くがたって両親は亡くなり、兄弟も高齢化した。円谷選手の兄の一人、喜久造さん(74)によると、閉館は兄弟で相談して決めた。遺品の運び出しを進めており、一部は14日から市体育施設『須賀川アリーナ』で公開される」

 2016年のオリンピックに、東京の52年ぶりの立候補が決まった年に、かつての東京オリンピックのヒーローの記念館が閉鎖された。皮肉なものだ。円谷さんが体現していた家族共同体、地域共同体も、今やほぼ消えてしまったのだから、これも仕方のないことだろう。そして今、安倍晋三・新首相は「美しい国ニッポン」を作ろう、と呼びかけている。円谷選手がそのために走った「美しい国ニッポン」(川端康成さんがノーベル文学賞をうけたとき、記念講演した「美しい日本の私」を思い出す)と、安倍首相のうたう「美しい国ニッポン」とは、もはや別物であるにちがいない。

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