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vol.300-1(2006年 5月10日発行)
杉山 茂 /スポーツプロデューサー

「世界大会」だけの盛況に終らせるな


 バドミントン会場を埋めつくす大観衆、大声援―国内大会ではあまり見られぬ光景も世界一を競う国・地域別対抗戦「トマスカップ」「ユーバーカップ」ともなれば違ってくる。

 ゴールデンウイークに組まれた両大会は、序盤戦の仙台で5000人を超す日があり、決勝トーナメントの東京体育館は10000人のフアンで沸いた。

 日本選手たちは、プレッシャーを感じながらも“地元”での人気を喜び、プレーに力がこもった。

 かつて、日本のバドミントンは、世界の頂点に君臨していた。今回の活況が、栄光の復活へつながるのなら嬉しい。

 気になるのは、バドミントンに限らず、国内のスポーツイベントの多くで、日常と「世界」の看板を掲げた時にのぞく“差”である。

 ヨーロッパやアメリカ大陸で、国際的な競技会を招致するのは、そのスポーツの人気定着が確かめられ、事業性を見込め、閉幕後はさらに大きな発展が期待できる、というシナリオを描けてからだ。

 日本では「世界」を招いて、それを起爆剤にしようとする計算が強すぎはしないか。

 話は少々古いが、9年前、熊本県内で「世界ハンドボール選手権(男子)」が開かれ、2週間の大会に28万人もの観衆を集めた。ハンドボールにこれほどの関心があったのかと驚かされ、関係者が悲願とするメジャー化へのきっかけをつかむかと思われたが、一瞬の華々しさで散っている。

 こうしたケースは少なくない。日本のスポーツ周辺の浅さ、薄さではないか。

 連休の一日、来年に世界選手権を控える大阪で国際陸上競技会が行われたが、テレビ画面で見るかぎり、盛り上りを感じられなかった。

 ところが、おそらく本番時は、日ごろの閑散がウソのような雰囲気に包まれるのだろう。

 思えば、1991年、東京での世界陸上競技選手権は、このスポーツの面白さに「酔った」「魅せられた」だのとの言葉が飛びかったものである。

 その“賞味期間”、1年といって悪ければ2年で切れた。スタンドは顔みしりの関係者が多く、一般フアンはあまり増加も定着もしなかったのだ。

 フアンや観客の移り気を責められない。つかんだお客さまを離すまいとする努力、感覚がスポーツ団体側に乏しすぎるのだ。

 事業力、企画力のなかから“集客力のある選手”が育ち、その選手が新たなエネルギーを生み出す。この繰り返しを絶やさぬ努力が海外のスポーツ団体やイベントでは磨き続けられている。

 このあとのバドミントン・シーンを見守っていたい―。

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