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vol.303-2(2006年 5月31日発行)
杉山 茂 /スポーツプロデューサー

特異なアマ野球人・山本英一郎さんを悼む


 アマチュアベースボール界で特異のリーダーシップを発揮されていた山本英一郎さんが5月26日、87年の生涯を閉じられた。

 特異の、と書かせていただいたのは理由(わけ)がある。

 山本さんは40年以上も前からベースボールの“国際化”を提唱され、機会あるごとに熱弁をふるわれていた。

 この正論が、日本の野球界では、あまり受け容れられなかった。

 「野球」と呼ばれる日本列島のベースボールの居心地のよさにひたったままの人が多く、同調して行動するムードは高まらずに過ぎたのである。

 1984年のロサンゼルス・オリンピックでベースボールの公開競技実現に尽力し、日本代表に付き添って現地入りしていたが「他競技の選手との交流に新鮮な驚きと喜びを感じている。ベースボールは内も外も独自の世界に閉じこみすぎていた」と嬉しそうに話された。

 “アマチュアの重鎮”でありながら、プロフェッショナルとの深い溝を「不必要なもの」と感じられ、堂々とそれを発言した。

 テニス、ゴルフ、サッカーを例に出され、ヨーロピアン・スポーツの“先取性”を曹オがられていたのも思い出深い。

 1992年のバルセロナ・オリンピックは、男子バスケットボールのアメリカ代表にプロ(NBA)選抜が「ドリームチーム」の名で登場し、世界の話題をさらった。

 その大会で、日本の放送界は、ゲストコメンテーターに王貞治さんをお願いしていたが肝心のベースボールで、アマチュア系の解説者との“同席”が認められなかった。山本さんは「まだ、このスポーツはそのような感覚なんだよ」とすまなそうな顔をされたものだ。

 マスコミは、業績を偲んで追悼に大きなスペースを割いたが、山本さんが甲子園や神宮の名テレビ解説者で、ユーモアあふれる語り口が、アマチュア・ベースボールの人気を支えたことに筆を運んだ記事が少なかった。

 時の流れの速さの前には過去の名声もはかない、と言えるが、「ノーストライク・スリーボール」や「ワンストライク・スリーボール」後の好球を打つ姿勢を持てと説かれ、この局面の消極さが、日本全般のベースボールの迫力をそぐ、とも言われていたのが印象に残る。

 古い時代のよさも大切にしていた。亡くなられた2日後の東京6大学野球・早慶戦(神宮球場)。テレビ中継のメインショットで企業名を冠せた「プロ野球交流戦」の広告看板がつねに写し出され違和感をつのらせた。

 恒久的に掲げられた看板ではない。この時期限定の内容なことは明らかだった。

 山本さんが健在だったら、テレビスタッフを含めてほとんどの関係者が「いくらなんでも、ああいうのは取りはずしなさいよ」とお叱りをうけただろう。

 ベースボールのすみずみまで、総てに気を配った国際派の名解説者。安らかにお眠り下さい―。

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