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vol.341-1(2007年2月27日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
「入谷コピー文庫」の中のスポーツ人

 世の中には奇特な人、ふしぎな人がいるものだ。私の若い友人でフリージャーナリストの堀内恭さんは、本職のかたわら「入谷コピー文庫」を発刊している。パソコンとコピーを駆使した、A5判の20ページ前後の不定期刊の小冊子だ。限定15部というから超ミニコミ誌だ。

 最近送られてきたのは、桂浜吉「そして・・・未亡人読本〜寒椿篇〜」。26ページの小冊子は、亡くなった芸能人、スポーツ人の未亡人が書いた思い出の一冊を、10人分コメントを加えながら紹介しいる。高橋悦史、手塚治虫、木村功、藤山寛美、松田優作、横山やすし、中田ダイマルのほかに、「最後のストライク―津田恒美と生きた2年3ヶ月」(津田晃代/勁文社/1995)、「オーケー!ボーイ―エディさんからの手紙」(百合子タウンゼント/監修・高橋和幸/写真 2005年・卓球王国)、「つぅさん、またね―ジャンボ鶴田を支えた家族の記録」(鶴田保子/2000年/ベースボール・マガジン社)の3冊の紹介が収められている。

 どの一篇も3000字足らずの掌編エッセイだが、読んでいて心にしみるものがある。たとえば、広島カープで炎のストッパーと呼ばれた津田恒美投手の場合―

 冒頭は「2006年の夏は暑かった。そんな夏山口県岩国市へ行く用事があった。新幹線で駅に着き、そこからはタクシーに乗り換えた。車内ではラジオが流れ、夏の甲子園山口県大会の決勝戦が行われていた。南陽工・・・その名前に、運転手さんに聞いてみた。『そうですよ。勝てば、あの津田以来の甲子園なんです、あの高校は』・・・やはり元カープの<炎のストッパー>と呼ばれたリリーフ・エース、津田恒美の出身高校だった」で始まり、最後は「津田がなくなって10ヶ月後、津田の生涯を描いたNHKスペシャル『もう一度投げたかった』が放送された。広島地区では視聴率42.7%だったという。そして津田の一人息子・大樹君は今年18歳になっている。彼はどこかで野球をやっているのだろうか・・・」と、結ばれる。

 その間に、津田投手の野球とのかかわり、晃代夫人とのなれそめ、家族のこと、闘病生活、そして最期―までが、夫人の書いた本をもとに簡潔にまとめられている。淡彩のスケッチをみているような感じだが、筆者の津田投手(と夫人)に対する深い思いが、よく伝わってくる。淡々とした筆が、かえって痛切な思いをよく伝えている。

 ボクシングのトレーナーだったエディ・タウンゼント篇の最後は―「この本には登場しないが、『一瞬の夏』のカシアス内藤は、現在長年の夢だったジムを開設した。『E&Jカシアスジム』、その名前のJはカシアスの本名純一から、そしてEはエディの名前から取られたものだ。まだデビューしたばかりのプロボクサーが2人しかいないが、アットホームな小さなジムだという。『勝ったときは会長がリングで抱くの。負けたときはボクが抱くの』と言ったエディの言葉を今でもカシアスは思い出して、リングで倒されて負けた若者に、こう声を掛けると言う。『大丈夫、大丈夫、オーケーだよ』と。エディのようにたどたどしくはないけれど、とっても温かい言葉を・・・」

 プロレスのジャンボ鶴田篇の最後は―「(鶴田の)遺体とともにホルマリン漬けした肝臓を保子は(フィリピンの病院から)日本へ持ち帰った。日本では臓器売買による移植の報道がなされ、容赦ないマスコミが保子を叩いた。保子は抗議するのではなく、真実を言い続ける道を選んだ。鶴田は坂本龍馬が好きだった『死ぬ時はどぶの中でも前のめりになって死にたい』という生き方に共感した。前のめり・・・挑戦しつづけた日々だった。『人生はチャレンジだ!』と鶴田の墓には、彼の好きな文字が刻まれている」と結ばれている。

 単なる書評ではない。桂・堀内という絶妙のコンビで、心に残った芸能人とアスリートの紙碑をつくりつづけているように見える。貴重な仕事だ。

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