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vol.352-1(2007年5月15日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
日本フィギュア陣の新しさ

 前回に続いて、もう一度、フィギュア・スケートのこと。「広告批評」(マドラ出版)5月号に、作家の橋本治さんが、3月の世界フィギュアについて面白いことを書いている。(連載エッセイ「ああでもなく こうでもなく」No.114)

 「なんでフィギュア・スケートに関心があるのかなと言うと、あるところで日本のフィギュア・スケートがガラッと変わってしまったと思うからだ。1990年代の伊藤みどりや本田武史の時代は『フィギュア・スケートという名の運動競技』というようなものに近かったと思う。正確さとかパワーみたいなものが重要視されて、欧米の選手が当たり前に表現する『陶酔感』が日本の選手にはなかった」

 それが、荒川静香、村主章枝、中野友加里、安藤美姫、浅田真央らが輩出して、「西洋渡来のフィギュア・スケートという運動競技をマスターして、その技術を提示する」から、「マスターしたフィギュア・スケートの技術によって、自分を提示し表現する」に変わった、という。

 「この『自分を表現する』は、別の言い方をすれば、『美しいスケベを破綻なく見せる』で、それがフィギュア・スケートの芸術点だと、私は思う」と書く橋本さんは、それが女子選手だけでなく、男子選手―高橋大輔、田村岳斗、織田信成も同じで、「日本人はどうしちゃたんだ?」と、思ったという。

 手っ取り早い答えは「バブルのせい、である。バブルの時代に日本は変わった。めんどうくさいことは考えない。自分がすべてで、オシャレがすべてでもある。『日本近代』と言われるものが持っていた野暮ったさとか、この時代に払拭されてしまった」。

 「美しいスケベ」とは、いかにも橋本さんらしい言い方だが、「フィギュア・スケートの動きは、日本人が日常生活の中で作動させる身体行動とは、全然別の回路を必要とする。それは『気取ってる』とか『スケベッたらしい』とか言われかねないようなものである。だから日本人は、これを『運動競技』という枠の中に無意識の内にはめ込んでいた」と、言われてみればよく分かる。

 はにかみ、恥じらい、つつしみ深さ、ひかえめなどの、かつての日本女性の美徳が体の動きから消えて、あっけらかんと何のためらいもなく、ストレートに自己表現できるようになったから、日本のフィギュア・スケートは格段に向上した、といえる。自己を表面にさらけだすことに、何の抵抗感もなくなってきた。

 自己表現には、もちろん、自己の充実が必要だ。表現するに足る自己、である。幸いなことに、スポーツには高度な技術の習得という、具体的な自己鍛錬の道がある。漠然とした自分探し、などというものとは決定的に違う。少なくとも、技術習得の間は、自己の充実はある。スポーツのありがたいところだ。

 橋本さんによれば、バブル以後、ついに新しい日本人が現れてきた、ということだ。

 たしかに、他のスポーツを見ても、たとえば女子走幅跳びの池田恵美子選手などを見ていても、跳躍を始める前に、スタンドに手拍子を求めるしぐさを見ていると、外国人選手とまったく変わらなくなった、と思う。

 と、書いてきて、ふとテレビを見ると、茶道の裏千家で、正座でなくあぐらでできる作法をこれから始める、というニュースが流れていた。礼儀作法のおおもとですら、変わろうとしている。正座ができなくなった日本人を許容しよう、というわけだ。日本人の動作がすっかり変わってきたようだ。

 ケータイの普及、身体行動の変化で、いよいよ新しい日本人が現れてくるのかもしれない。

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