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vol.364-1(2007年8月7日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
「朝青龍問題」を考える

 横綱朝青龍がまた問題を起こした。骨折で長期にわたる治療休養が必要という診断書を協会に提出、故郷モンゴルに帰国した。そこで中田英寿さんらとサッカーにうち興じている姿が、バッチリテレビで放映された。とても怪我人とは思えない軽快な動きで、ヘディングまで見せた。

 怪我を理由に8月巡業を休むことになっていたから、この軽挙妄動は処罰の対象となった。2場所出場停止、という重い罰が下された。

 朝青龍はわがままのレベルを越えた問題行動の常習犯だ。これまでも何度かヤリ玉に上っている。土俵上の態度がふてぶてしいから、問題を起こすとバッシングがひどくなる。「ふてぶてしい」の初代は、今の理事長北の湖。現役時代の北の湖は憎たらしいほど強く、どんな相手でもちぎっては投げとばすように見えた。檄然たる態度で土俵でも勝ち名乗りをうける姿が、たしかにふてぶてしく見えた。しかし、このふてぶてしさには、どこか愛嬌があった。朝青龍のように、ことさらに相手を睨みつけたり、無用なダメ押しをしたりすることはなかった。北の湖のふてぶてしさには、純粋な少年のようなはにかみが見え隠れしていた。朝青龍のふてぶてしさは、多分、パフォーマンスとしてのものにちがいない。そのわざとらしさがハナにつく感じなのだ。実るほど頭を垂れる稲穂かな。の国だから、朝青龍はその逆を行くかたちになっており、ソンしている、といえよう。

 横綱という存在はただ強いだけでなく、人格的な完成が求められる。いつの時代でも、気はやさしくて力持ちの理想的イメージが、横綱に求められている。これは大きなプレッシャーだろう。ガキ大将、お山の大将的な魅力はあっても、いつまでも人格的な成熟が見られないところに、1人横綱として数年間、あれだけがんばってきても、もうひとつ人気が上らないのは、そのせいだろう。好漢惜しむべし、と思う。

 横綱となると別格的存在となって、親方(高砂・元朝潮)ともあまり日常的に口をきかなくなるのか、今回の問題行動、処罰などの間も2人は会った形跡がなく、精神科医が「横綱はうつ病寸前だ。すぐ帰国させて、むこうで精神的に落着かせるのがいい」と取材陣に話したあと、やっと面会している。遅すぎる。遠慮しすぎ、というべきか。

 名横綱双葉山が心技体の完成にどんなに努力したか、とくに心の充実にどれだけうちこんだか、晩年の著書「相撲求道録」を読むだけでもよく分かる。今の若者にそのような形で、独力で難局を切り開いていく力はない。だれかのサポートを必要とする。親方がまず第1にその任に当たるべきではないか。逸材朝青龍をうつ病に追い込み、土俵から追放してはならない。

 朝青龍の軽率な行動を非難するだけでなく、未熟なところも多々ある若者を周囲からサポートできる態勢をつくることが先決だ。今の横綱は完成されたものではなく、完成への途上にある存在だと考えた方がいい。心技体の完成へ向っての永久革命の先頭に位置する人、依然として発展途上人、それが横綱である。相撲がスポーツ化すればするほど、そうだ。自力でやれ、と突き放すのではなく、たとえばモンゴル文化も考えあわせながら、朝青龍を支えるサポートの仕組みをつくってほしい。サポートは時代のキーワードである。相撲界も例外ではない。

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