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vol.394-1(2008年3月25日発行)

岡崎 満義 /ジャーナリスト
「ナンバー700号」で考えること

 スポーツ総合誌「ナンバー」が700号を迎えた。編集部ができたのが、(創刊の)前年1979年9月、7人でスタートした。1980年4月に創刊号を発行するまでの半年間は、波乱万丈、疾風怒涛、何と形容してよいかわからないほどの、目まぐるしい日々だった。日露戦争の時、ロシア艦隊を迎え撃った東郷平八郎司令長官が「天気晴朗なれども波高し、各員一層奮励努力せよ」と全艦隊に指令を発しているが、私は「波高けれど天気晴朗」という気分だった。

 困難は山積していたが、これからはスポーツの時代になる、と確信していたから、「波高けれど天気晴朗」と、編集部で話したことを覚えている。準備期間中の日本シリーズで、「江夏の21球」を発見して前途に曙光を見たと思ったら、第8号「モスクワ五輪」号では日本不参加で売行きは大惨敗、首筋のあたりがひんやりした。それが第10号「SOS 長嶋茂雄へラブコールを!」は発売3時間で完売、やっと雑誌界に市民権を得た思いであった。

 創刊から700号の今日までの28年間、日本スポーツ界はどう変わったか。何といっても、サッカーJリーグの誕生だ。私はサッカー特集の号を作ったことがない。1980年頃はサッカーの谷間の時代、W杯など夢のまた夢、という時代だった。NHKスポーツセンター長をした杉山茂さんも「あの頃のサッカーのスタンドは閑古鳥が鳴いていて、いかにしてテレビ画面に無人のスタンドがうつらないようにするか、カメラワークに苦労した」と話す。

 それが1993年のJリーグ発足で大ブレークした。100年構想、地域密着という、日本では先進的なポリシーは、先輩プロスポーツのプロ野球にも影響を与え、北海道の日ハム、仙台の楽天を生むことになった。サポーター、チェアマンという横文字も、新鮮に響いた。世界レベルの選手が日本にやって来たし、逆に日本選手も、中田英寿の後を追うように、海外に移籍するのも珍しいことではなくなった。まさにボーダーレスを誰もが実感する時代になった。

 2つ目は野茂英雄のドジャース入団。1995年のことだ。これもスポーツのボーダーレス時代の幕開きを思わせる“事件”だった。この年は阪神淡路大震災、オウム地下鉄サリン事件、ウィンドウズ95の発売という、社会の地殻変動の年だった。石もて追われるごとく近鉄を出た野茂投手は、単身大リーグの固い(と思われた)扉をこじあけて、アメリカで恐るべきトルネード旋風を巻き起こした。“国技”野球に大きなインパクトを与えた事件だった。このとき私は、1962年、ヨットで太平洋単独横断に成功した堀江謙一さんを思い出した。その快挙に匹敵する“事件”だった。太平洋に向ってひきしぼられた弓から、一本の矢として放たれた2人だ。

 3つ目は女子マラソンの隆盛ぶりだ。1979年に幕を開けた東京国際女子マラソンは、今年で発展的解消となるようだが、女子マラソンは世界的なレベルになっている。1976年のモントリオール五輪で、日本の女子バレーボールチームは白井、松田などの日立武蔵組を中心に、無敵の快進撃で金メダルを取った。そのとき山田重雄監督は「おまえたちは日本の働く女性たちのために、バレーボールで金メダルを取るんだ」と激励しつづけた、と聞いた。今は女子マラソンが、バレーボールに代わって働く日本女性を力づけているように見える。

 1974年にゴーマン美智子さんがボストンマラソンで優勝して以来、佐々木七恵、増田明美、浅利純子、高橋尚子、野口みずき・・・数えきれないほど、個性的な選手があらわれた、大量の“走る女”の登場が、日本社会を確実に変えているように思える。

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