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vol.395-2(2008年4月4日発行)
滝口 隆司 /毎日新聞大阪本社運動部記者
黒岩彰さんの10年、日本スポーツの10年

 1988年カルガリー五輪のスピードスケート五百b銅メダリスト、黒岩彰さんが富士急のスケート部監督に就任した。私が黒岩さんを取材していたのは98年長野五輪の頃だ。当時は日本代表の長距離系コーチだったが、五輪が終わると社業に専念、その後はプロ野球、西武の広報や球団代表を務め、10年ぶりにスケート界に戻ってきた。

 思い出されるのは長野五輪の直後のことである。金メダルを獲得した清水宏保が、所属していた三協精機を退社し、フリーになることを発表した。長野五輪の後、黒岩さんも日本代表コーチを退き、コクド(現プリンスホテル)の一社員に戻っていた。

 「オレならあんなことはできるかなあ。自分は会社に育ててもらったと思っている。オリンピックでメダルをとった後に会社を辞めるなんて」

 清水は五輪での活躍を機に、自立したアスリートを目指した。のちにNECと契約し、プロ的なスケーターとしての道を歩むことになる。世界のスケート界を見渡せば、トップ選手はスポンサーを自ら集め、プロアスリートとして活動するのが当たり前のようになっていた。清水は日本のスケート界に風穴を開けるつもりで自らを厳しい環境に置こうとしたのだろう。

 日本の冬季競技をリードしてきたトップ選手たちは長野五輪を境に、プロ的な活動を始めるようになる。注目度が一気に高まっただけに、スポンサーもつきやすかったという側面もある。一方、長引く景気低迷で冬季競技を支えてきた多くの企業がスケート部やスキー部を休廃部にしていった。その結果、トップ選手だけでなく、準トップ選手までもが安定的な企業スポーツの競技環境から離れていくようになった。その状況は夏季競技でも変わらない。

 スケート界を去ってから10年、黒岩さんは日本のスポーツをどう見ていたのだろう。一昨年の冬、ばったりと黒岩さんに会う機会があった。京都であったプロ野球選手による高校球児のためのシンポジウムに、西武の球団代表としてあいさつに来ていたのだった。「球団代表の仕事ももうすぐ退くんです。本社に戻ります」。そんな話を聞かされた。プリンスホテルに戻り、会社員としての人生を送っていくかに思われた。

 しかし、プリンスホテルの営業に就いていた黒岩さんは昨年7月に退社を決意する。そして今、スケートの世界に復帰することになったのは、スポーツへの情熱が消えていなかったからに違いない。

 富士急といえば、橋本聖子、岡崎朋美ら幾多の名選手を育て、日本のスピードスケートを引っ張ってきた強豪である。不景気が続いても、決してスポーツを手放そうとはしなかった企業でもある。

 今後は当然、スケート部の強化に邁進していくのだろう。だが、それと同時に日本スポーツのあり方にも積極的に発言をしてもらいたいものだ。10年間、外から日本のスケート界を見てきた「世界のクロイワ」にそんな期待をしたい。

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