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vol.412-3(2008年8月8日発行)
滝口 隆司 /毎日新聞大阪本社運動部記者
高校野球の教育論を掘り下げたい

 90回目の記念大会を迎えた夏の甲子園も、日程のほぼ3分の1を消化した。7日の第6日には、メンバー外の2年生部員が不祥事を起こした群馬代表の桐生第一高校が登場した。学校側は一般生徒の応援を自粛するという異例の措置をとり、チームは初戦で敗れ去ったが、今回の一件は高校野球と教育の関係を考えさせられる問題だ。

 部員が野球部の活動とは関係のない時間帯、場所で強制わいせつ事件を起こした。1人での犯行であり、他の部員の関与も確認されていない。また、逮捕された部員は甲子園大会の登録選手でもない。そうした理由で出場は辞退せず、桐生第一ナインは甲子園の土を踏むことになった。

 野球部の活動に直接関係した不祥事ではないのだから、部の連帯責任は問わないという処置だった。過去数年の同様のケースでも、チームが出場を辞退した例はない。甲子園出場の舞台を奪うことは極力避けたいという背景もあった。ただ、だからといって、今回の犯行が野球部と無関係とまで言い切っていいのか。人間形成という点で、高校野球は1人の球児を教育できなかった。そんな反省の視点はあるだろうか。

 昨年の特待生制度問題の議論でも、高校野球がどのような人間を育てていくのか、その教育論は明確にはならなかった。この問題を検討した有識者会議は「特待生は他の生徒の模範になるべき」との理由で特待生を容認する方針(各学年5人までというガイドライン)を打ち出したが、野球の技能だけで特別待遇を受けることが社会常識の感覚を失わせ、人間として成長のバランスを欠くのではないか、という反論も根強かった。

 今大会中、ある球団のスカウトと話し合う機会があった。そのスカウトはまず双眼鏡を手に開会式で入場行進を見るのだという。選手たちの歩き方一つ、整列の仕方一つに、そのチームがどのような教育を受けてきたかが如実に表れるからだ。たとえ注目選手がいたとしても、人間的に難があれば、指名を見送ることもある。投手の球速や打者のスイングスピードばかりを見ているのではない。その選手が末永くプロとして活躍できるかは、野球の能力と同様、人間性にも関わっている。それがプロの見方である。

 このスカウトは名指しでいくつかの学校を挙げた。全国的に名の通っている甲子園常連校でありながら、卒業後にプロとして成功している選手がほとんど見あたらない。そんな学校だ。高校時代から充実した特殊な環境で野球の専門的訓練を積んだ選手が必ずしも一流のプロに成長するというわけではないのだ。

 話は戻るが、桐生第一はなぜ一般生徒の応援を自粛するという措置をとったのか。とても教育的措置だとは思えない。これではますます野球部員は他の生徒たちから切り離され、特別な存在になってしまうだけだ。試合後には福田治男監督が「世間を騒がせたことの責任は取らなければならない」と辞任を示唆した。しかし、辞任は「世間を騒がせた」ことに対する学校内での責任をとっただけに過ぎず、選手の教育という点で何の責任も果たしていないのではないか。

 規範意識、フェアプレーの精神、感謝の心・・・。野球を通じて高校生が学ぶことは多い。高校野球は教育の一環である、と言われ続けてきたが、教育の視点がぼやけ始めている。もっと高校野球の教育論を突き詰めて考えたいものだ。

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