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vol.413-4(2008年8月29日発行)
滝口 隆司 /毎日新聞大阪本社運動部記者
ただ勝てばいい、のではない


 北京から帰国した日本選手団の入賞者らが首相官邸に招かれた。五輪が終わった後の恒例行事でもある。その際、マスコミがこぞって取り上げたのが、柔道男子100キロ超級の金メダリストになった石井慧(国士舘大)である。

 破天荒な21歳の若者。柔道界の異端児。そして、歯に衣着せぬ物言いがテレビ受けするのだろう。あまりに危険な発言が目立つと、全日本柔道連盟が取材にストップをかけているとの報道もあった。それも石井らしいエピソードだ。

 ただし、彼が試合直後に語ったコメントはいまだに引っ掛かる。若者のスポーツ観とはこういうものか。そんな埋めきれないような溝を感じたからだ。

 「決勝は冒険せずに勝ちに行った。あれが自分の柔道。負けちゃいけない、というのが国士舘の教えなんで」。相手としっかり組み合って一本を取りに行くという日本柔道の伝統を否定し、「どんな方法でも勝ちに行く。勝たなければ意味がない」と公言していた石井だ。準決勝では相手の足を取りに行き、決勝では巧みな攻めでポイントを重ねた。

 ある柔道関係者が怒り半分に評していた。「国士舘がそんな柔道を教育してきたと石井は考えているのか。(国士舘高−国士舘大出身の)鈴木桂治や内柴正人は決してそんな考えを持った柔道家ではない」。

 日本が柔道本来の姿ばかりに固執していては、パワーやレスリング技で攻めてくる外国のJUDOに勝てなくなる。そういう考えを持って石井は練習に取り組み、金メダルを獲得した。だが、多くの柔道関係者は、そんな勝敗とは別の次元で、日本柔道にはもっと奥深い精神性があると考えている。

 「柔よく剛を制す」「精力善用」「自他共栄」といった言葉がその本質を表しているといっていい。ただ強い者が勝つのではなく、相手の力も利用することによって、力のないものにも戦えるチャンスがある。そこに自分も他人も栄えるという精神性が宿っている。ただ勝てばいい、という単純な競技ではないのだ。

 陸上では男子百メートル、二百メートルを制したウサイン・ボルト(ジャマイカ)の行動を国際オリンピック委員会(IOC)のジャック・ロゲ会長がたしなめた。

 ボルトが百メートルのゴール直前に両手を広げ、胸をたたきながらフィニッシュしたことに対し、ロゲ会長は「『捕まえられるなら捕まえてみろ』と言っているかのようだ。レースの後は敗れたライバルたちとも握手を交わしたりすべきだった」と苦言を呈した。ボルトはそんなことはせず、テレビカメラに向かって「オレは一番だ」と何度も繰り返し、自分の強さを誇示していた。

 AFP通信よると、ロゲ会長は「彼はライバルたちにも尊敬の念を示さなければならない。それがオリンピックの理想とする精神だ。彼はまだ若く、もっと成熟していかなければならない」と語ったという。五輪の根本にも、柔道と共通した精神が流れている。

 勝者も敗者もともに相手を称え、スポーツの価値を認め合う。そんな精神を若い世代にどう伝え、根付かせていくべきか。スポーツ界だけでなく、我々メディアの世界にも大きな責任が課せられている。

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