大相撲の八百長問題をめぐって、なにやら面妖な言説が飛び交っている。論旨がいまいちはっきりしないものが多いのだが、簡単にまとめれば「八百長も大相撲の一部だ」ということにでもなるだろうか。「八百長も含めて楽しむゆとりがあっていい」「世の中、全部がガチンコでなくていい」「騒ぎ立てる必要はない」―などというのである。先だってこの欄で取り上げた「大相撲はスポーツかどうか」の論と同様に、これもまた「ナーニ言ってんだか・・・」という感じだ。
それらの論拠はつまり「大相撲は特別だ」ということなのだろう。元来は五穀豊穣を願う儀式で、神事や芸能、伝統文化が一体となったもので、独自のしきたりやスタイル、風習があって、その風情を楽しむものであって、勝ち負けがすべてではなくて、白黒つけるのはなじまなくて―と、まあどこまで続けても同じことだが、要するに、かつての総理の迷言を借りれば「これは他のスポーツなどとは違うんです」というのである。だから、あうんの呼吸によるつくられた勝負や人情相撲があってもいいじゃないか、そんなことを正義ぶってあげつらうのは粋じゃない、八百長もあわせて楽しむ余裕を持ちなさい、などと文化人、知識人諸氏はおっしゃるのだ。
そうだろうか。
確かに大相撲には他にない、独自の世界がある。それこそ神事にルーツを持つ長い長い伝統がある。大切に伝えていきたい文化のひとつでもある。が、その大相撲の土台がいまどのようにして成り立っているかといえば、それは「スポーツとして」以外にない。独特かつ貴重な文化もさることながら、鍛え抜かれた力士たちによる真剣勝負の魅力、すなわちスポーツとしての魅力が根幹にあるからこそ、大相撲は国民的娯楽たり得てきたのだ。そのことは、スポーツという概念がまだ入ってきていなかった江戸、明治初期でも同じだったと思う。想像してみてほしい。しばしばつくりものやら予定調和やらが交じる取組を伝統芸能として演じるだけのものであったとしたら、これほど大きな存在として残ってこなかったのではないか。
となれば、そこには八百長が、ことにカネで星をやりとりするような八百長が入り込むスキはない。そんなものがあったら、熱くて激しいスポーツ本来の魅力を求めてやってくる観衆やテレビ観戦のファンたちを楽しませる興行にはならないからだ。健全なプロスポーツとして成り立たないのであれば、そこにある歴史も文化も伝統も同じように滅びていくしかない。
確かに大相撲には他のスポーツなどとは違ったところがある。ただ、スポーツとしての根幹が揺らげば、その存続はおぼつかない。つまり、つくられた勝負の存在を暗黙のうちに認めてもかまわないほどには「違っていない」のである。
世論調査では、「以前から八百長はあると思っていた」の回答が8割近くに達している。だからといって、世の中の人々が「八百長容認」だったわけではないだろう。「八百長などない」という相撲協会の強弁に加えて、明確そのものの証拠もなかなか見いだせなかったために、ファンも結論を先送りしてきただけなのだ。いわばモラトリアム期間とでも言おうか。
だが、ついにのっぴきならない証拠が出てしまった。事態はこれまでとはまったく違う。「八百長あり」と知ってしまったファンの目には、もはやすべての取組が色あせて見えるかもしれないのだ。相も変わらず「相撲はスポーツじゃない」「八百長も楽しむゆとりを」などと悠長なことを言っている場合ではない。
そんな論を見るたびに、ふと思うことはこうだ。
「この人は、ほんとに相撲が好きなんだろうか」
|