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vol.520-1(2011年2月28日発行)

滝口 隆司 /毎日新聞運動部記者

「お祭り」はスポーツの原点だ

 自宅に帰って録画した東京マラソンのビデオを見ていたら、千葉真子さんがいいことを言っていた。「タイムはどうであれ、マラソンを走ったことのある人はマラソンを語れるんですよ」。初めてのマラソンとして参加した私のタイムは5時間27分27秒。千葉さんの言葉を聞きながら、「その通り!」とひざを叩いた。

 長距離のランニングを始めたのは、3年ほど前からになる。技術書を数冊買ってフォームを研究し、走れる距離が、それまでの5キロ程度から20キロ、30キロと伸びていった。フォームだけでなく、栄養補給やひざや足首を痛めないシューズの選び方、テーピング、タイツの種類まで随分と調べたものだった。

 レースに当たっては、ラップタイムを計測できる腕時計まで買った。そして本番。1キロ6分半〜7分半前後のリズムで好調に走れたのは35キロまでだった。そこからは、過去に走ったことのない未知の領域。一気に足が動かなくなり、タイムが落ちていくのが分かったが、そこである心境が芽生えた。

 「タイムなんてどうでもいいか」

 マラソンにはそれぞれの目標がある。日本代表を目指すトップランナー、サブスリーやサブフォー(3時間、4時間切り)を狙う中堅の市民ランナー、実力がありながらコスプレで楽しませようとするユーモアたっぷりのランナー、そして私のようなマラソン初心者・・・。

 7時間制限だったが、5キロごとの関門でレース打ち切りとなった人もいる。だが、そんな人たちにも「語るべき」ストーリーがある。

 ボランティアや沿道の人たちもまた、レースの立派な「参加者」であった。プラカードを抱え、見ず知らずのランナーにチョコレートや飴を差し出し、大声で声援を送る。そこには何の損得もない。このような人たちにも「語るべき」ものがある。

 東京マラソンが「お祭り」とはよく言われることだが、これは中世のフットボールにも似ているのではないか。そんなことを走りながら考えた。街全体をフィールドに見立て、何百人もの人たちが一つのボールを一日中蹴り合ったお祭りだ。東京マラソンも、東京という大都市の機能を止めて、約3万6000人もの人が走った。ボランティアや沿道の人たち、そして抽選に外れたランナーも加えると、何十万人という人が年に一度のお祭りにかかわろうとした。

 今年からは10万円を払ったチャリティーランナーが出場できる制度が導入された。また、これとは別の会員制度もつくり、来年は年4200円を支払うプレミアムの有料会員が参加しやすいシステムも検討されているという。カネで参加者を線引きすることには違和感を抱くが、それでも走りたい人がいるほど、スポーツをすること(お祭りに参加すること)への欲求は高い。

 スポーツを「見る」ことももちろん楽しい。だが、「する」を経験すれば、その楽しさはさらに増すだろう。メディアにいる者としては「見る」ファンが常に対象となりがちだが、そんな時代ではないのかも知れない。全国各地で巨大マラソンが計画されている。人々はスポーツの中に「お祭り」を見いだし、原点の喜びを取り戻そうとしているに違いない。

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