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vol.557-1(2012年9月12日発行)

滝口 隆司 /毎日新聞運動部記者

メダル主義に傾くパラリンピック

 ロンドン・パラリンピックが閉幕し、日本のメダル数が激減したことがニュースになっている。金5、銀5、銅6の計16個という数字は、4年前の北京大会の金5、銀14、銅8の計27個を大幅に下回り、メダル順位も17位から24位へと後退してしまった。

 今春、文部科学省が発表した「スポーツ基本計画」では、オリンピックだけでなく、パラリンピックのメダル目標も掲げられた。メダル順位で夏季五輪は世界5位以上、パラリンピックは前回大会以上だ。

 「障害者スポーツにも税金が投入される以上、政策目標が掲げられるのは当然ではないか」。スポーツ政策に詳しい、ある大学の先生からそんな意見を聞かされた。そして、メディアも大会中からメダル数を取り上げたが、その多寡が本当に障害者スポーツの振興に直結するのだろうか。疑問は拭えない。

 今大会は、世界的なレベルアップが顕著だった。実施された全503種目中、200を超える種目で世界記録が樹立されたとされる。陸上男子200b(T44)で敗れたオスカー・ピストリウス(南アフリカ)が、優勝したブラジル選手について「義足が長すぎる」と抗議したように、用具の発達は著しく、それが競技成績を押し上げている。各国での環境整備も進み、競技のみに専念するプロアスリートも増えてきた。

 ただ、パラリンピックが目指すところは、果たして高度化、エリート化だったか。ロンドン五輪の開幕前のことだ。義足のランナーとして注目を集め、スポンサーも付いているピストリウスに対して、経済紙記者から「あなたの商業価値はいくらだと考えるか?」という辛辣な質問が飛んだ。障害者スポーツのレベルが上がり、商業主義と関わっていくにつれ、周囲の見方も少しずつ変わってきている。

 英国は、パラリンピックが始まるきっかけとなった大会が行われた「障害者スポーツ発祥の地」だ。1948年、ロンドン郊外のストーク・マンデビルという場所にあった病院で、戦傷者のリハビリのためのアーチェリー大会が開かれた。その大会を提唱した故ルートビヒ・グトマン医師は「手術よりスポーツを」という信念の下、兵士たちの社会復帰に力を注いだ。選手が勝利を求めて努力する姿は今も昔も変わらない。しかし、現在のように、国ごとのメダル数を競う「メダル主義」の風潮が加速し、競技がレベルアップし続ければ、障害者スポーツは一部の人のものとなり、重い障害を持った人は外に追いやられてしまうだろう。

 今大会、自転車のハンドサイクルロードタイムトライアルで元F1レーサーのアレッサンドロ・ザナルディ(イタリア)が金メダルを獲得した。自動車レース中の事故で両足を切断し、その後、手で自転車をこぐハンドサイクルでパラリンピックを目指してきた。F1通信というインターネットサイトで、45歳になるザナルディのコメントを読んだ。

 「空想を追いかけるべきではない。しかし地平線をよく見れば、角を曲がったところに幸せがあるものだ」

 人生の角にぶち当たった絶望の淵で、ザナルディはスポーツから生きる力を得たのだろう。それはグトマン医師が求めた障害者スポーツの原点だったのかも知れない。

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