「そのグローブは、いいはずだぞお!」 「もうちょっと前で捕ったほうがいいぞ!」 「反省を込めての、ラスト3球だ!」 「忘れないための、あと1球!」 つぎつぎと容赦のない檄が浴びせられる。そのたびに少年たちは腰を低く構え、真剣な眼差しで守備練習を繰り返す。 故郷・南相馬市に帰るたびに私は、少年野球を取材している。しかし、3・11以来、スポ少に加盟するチームは存続の危機に陥っている。市内15校それぞれにチームがあったが、現在活動をしているのは3チームであり、いずれも連合チームである。それも3年生以下の選手は数えるほどで5人もいない。県内外に避難したこともあるが、屋外でのスポーツを保護者たちが敬遠しているからだ。 顔見知りの監督・Mさんが語る。 「不安なんですよ。いくら除染をしたグラウンドといっても、周囲の放射線量は0・5(マイクロシーベルト・毎時)はあるため、私たち保護者は覚悟してやっているんです。3・11から2ヵ月半ほどは野球ができなかったんですが、6月1日に練習を開始したときは『えーっ!』と驚いた。簡単なゴロもフライも捕れない。やっぱり、子どもたちには外遊びをさせないとダメですよ」 私は、次々と野球少年たちの保護者から話を聞いた。 福島第1原発から19・8キロ地点の警戒区域内に自宅を持つSさんの家族は、県外の避難所を転々とした後、現在は仮設住宅に住んでいる。 「親父として息子たちに申し訳ないと思うのは、3・11後の1年間に3回も学校を変えさせてしまったことだ。仲のいい友だちができた頃には転校しなきゃならなかった。まあ、今は仮設暮らしで、狭い3Kの間取りに家族6
人で住んでるけど、壁も薄い。プライバシーなんかない。それに、たまに自宅に戻ってるけど、家ん中は荒れ放題で、鍵もかけてねえのにドロボーに入られたり・・・。 納屋には猿が住みついたり。まったくもう、っていう感じだべ」 私は黙って耳を傾ける他なかった。 3月14日の午前11時1分。第1原発の3号機建屋が爆発。そのとき原発から27キロ地点で「タバコの煙を輪っかにしたような濃い灰色の雲が、ポッ、ポッ、ポッ」と上空に上る、きのこ雲を見たというKさんは、家族と和歌山に避難した。 「避難している当時は地元の人たちに大変お世話になった。着いた早々に青年会議所の人たちが私の仕事を見つけてくれたり、2人の息子が野球をやっているといえば、チームまで紹介してくれた。でも、ちょっと辛いこともあるにはあった。長男のほうは大丈夫だったんですけど、次男のほうは大変だった。たとえば、私や妻が『野球』とか『試合』などといった野球に関する言葉をいうと、そのたびにゲーゲー吐いてた。津波で亡くなったチームの仲間を思いだすからです・・・。最近ですね、息子たちが本音を喋るようになったのは。1年ほど前は『震災のときは怖かっただろ?』と聞くと『ううん、揺れていて楽しかった』なんていってた。でも、それは本音ではなかった。しばらくしてから、長男は『すごく怖かったよお』と・・・。だから、避難せずに南相馬に残っていた子どもたちは、もう大変な思いをしていたんじゃないのかな。しばらく余震も続いたしね。育ち盛りなのに、給食も炊き出しのおにぎりくらいしか出なかったと聞いてるし。行政は私ら大人よりも先に、子どもたちに目を向けるべきだと思うんですけどね」 山形に避難したHさん家族は、5ヵ月後に自宅に戻ることができた。 「避難所生活といっても親父の俺の場合は、平日は自宅から勤務先に行って、金曜日の夜に山形の家族んとこに行くという生活だった。長男が野球をやるようになってからは、金曜の夜に車で山形に行って、土曜の朝に放射線量の低い相馬市のグラウンドなんかに連れてって練習させてね。終われば山形に行き、月曜の朝に南相馬の勤務先に行く。そんな生活だった。ガソリン代も馬鹿にならなかったよ。まあ、初めは知らなかったけど、保育園に通っていた下の息子のほうは大変だった。俺は現場を見てないけど、気が狂ったように暴れてたらしい。女房は朝の5時頃に避難所をでて、仕事先に出向いて帰るのは夜の8時頃だったしね。環境が変わった上、母親の顔もろくに見れなかった。子どもにとってはさびしかったんだべ・・・」 そして、息子たちを見ながら続けて語った。 「まあ、南相馬に戻った途端に下の息子は暴れなくなったけどね。山形からこっちに戻った理由は、別に南相馬に愛着を持ってるからなんてことではねえ。自分ら家族は、これまで通りの生活をしたかっただけだ。ここで生まれて、ここで家族と生活して、ここで死ぬ。当たり前の生き方でねえの。この息子も『仲間と野球がしてー』といって、毎晩素振りして、走ってたしね。放射能のことなんか気にしてたら、息子には南相馬で野球をやらしてねえし、山形から戻ることもなかった。まあ、政治家は脱原発だとかいってるけど、口先だけで終わらせて欲しくねえ。いいたいのは、それだけだあ」 ここで生まれ、ここで生活し、ここで人生を終える。これまで通りの生活がしたいだけだ―。 この思いは、ほとんどの住民の切なる願いだ。 |