ドイツ・フランクフルト郊外の閑静な町・ヴァルドルフ在住の高橋範子さんが帰国し、約1年ぶりに会った。高橋さんは6年前までフランクフルトに本部を構えるドイツオリンピックスポーツ連盟の傘下にある、ドイツスポーツユーゲントの事務局に勤務。実に38年間に亘り、日独青少年交流の仕事に携わってきた。 高橋さんと私の付き合いは丸3年前からで、会うたびにお酒を飲み交わし、スポーツ談議に花を咲かせている。昨年4月にドイツに行った際は、彼女のサポートを得て、4年前まで20年間にわたってIOC委員を務める一方、ドイツNOC(国内オリンピック委員会)会長などの要職を歴任してきた、ワルター・トレガー氏にインタビューすることができた。さらに117年前の1896(明治29)年に創設されたスポーツクラブを案内してくれた。1896年といえば、第1回オリンピック・アテネ大会が開催された年だ。 「フランクフルトは、ベルリン・ハンブルク・ミュンヘン・ケルンにつづくドイツでは5番目に大きい都市で、420のスポーツクラブがあって、16万人が会員になってるの。そのうち公益法人のクラブは19で、2010年の時点で創立150周年を迎えているのは6、125周年が1、100周年が4、50周年が3、25周年が5・・・・・・。以上で19クラブになるでしょ」 高橋さんは「日本もドイツを倣い、スポーツを真面目に考えるべきなのよ」といった顔でいった。 そして「3・11」の際もお世話になっている。2ヵ月半後の5月末、私の元に彼女から次のようなメールが届いた。 「ドイツスポーツユーゲント事務局にバイエルン州バンベルク市のE・T・Aホフマン・ギムナジウム・バンベルク校の保護者会長からメールが入りました。学校側と保護者会が日本の被災地の生徒たちを預かり、ホームスティで学校に行ってもらおうということです。そこで私もスタッフの一員となり、南相馬市出身の岡さんも労を尽くしてくれるはず、といっておきました・・・」 その1週間後、再びメールが届いた。
「6月1日にスタッフとバンベルクに行き、校長先生や国際交流に熱心な先生、ユネスコスクール担当の先生、保護者会長たちと話し合いました。チェルノブイリの原発事故の際に子どもを預かった経験から、今回も被災地の生徒を1年間預かろうと呼びかけたところ、29の家庭が申し出たそうです。とにかく、まずは文通とかの交換から始めようという意見で一致しました。さっそく校長先生からの書簡と、生徒たちが日の丸の国旗を人文字で描いた写真を添付します。私は6月16日に帰国する予定です・・・」 帰国した高橋さんと私が会ったのは6月末。高橋さんが名を連ねる東京・狛江市の社会教育委員会と総合型地域スポーツクラブ委員会の有志も同席し、全面的に協力することを約束した。
そして、E・T・A・ホフマン校の生徒たちが、英文で綴ったメッセージは141通。9月初旬に高橋さん経由で、私の元には31通が届けられた。 ・ある1日は生活を変えてしまいます。ある1日はあなたの心まで変えてしまいます。あなたが無力さを感じるとき、あなたは私たちの心があなたとともにあることを思いだしてください。そして、私たちはあなたの笑顔が戻り、人生を楽しめるようになることを祈っています。 ・強くなって。希望を失わないで。人生はつづいて行きます。 ・あなたは、あなたの道を歩みつづけなければ。止まってはいけません。何故なら、これからよくなるでしょうし、あなたのパラダイスを見つけるでしょうから・・・。
9月16日、絵はがき31通を持参。私は南相馬市の鹿島中学校ユニット校舎で学ぶ、原町第二中学校の生徒に届けた。 「外国から励ましてもらい、嬉しいです。返事を書きます」 生徒たちだれもがそういって、笑顔を見せた。
しかし、生徒たちの笑顔を見るまでの私は、苛立っていた。まずは南相馬市の教育委員会に、このドイツからの話を伝えたのだが、早い話が「面倒な話を持ってきたな・・・」といった調子。そこで学校を紹介して欲しいというと「特定の学校は紹介できない」ということだった。イカリング! そこで私は、独自に母校・原町第二中学校の校長と教頭と交渉。さらに地元紙の福島民報と福島民友、共同通信に電話を入れて取材を要請し、生徒たちに絵はがきを届けた次第だった。3社とも取材にきてくれた。 それにしても教育委員会は何を考えているのか。ドイツの温かい子どもたちの行為をどう受け止めたのか。 元市役所職員の高校の先輩に事情を語ると、こういった。 「つまり、職員たちは慣例にないことはしたくないんですよ。たとえ3・11が起こっても。面倒だしね・・・」 嗚呼、我が故郷・南相馬市よ―。 |