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vol.576-1(2013年 6月3日発行)
岡 邦行 /ルポライター

原発禍!「フクシマ」ルポ―12

 朝の6時。放射能のことを思うと朝から気分が重くなってしまう。が、朝の散歩は気分がいい。
いつものように実家から徒歩で5分ほどの南相馬スポーツセンター周辺を散歩する。鶯の鳴き声を聴きながら歩を進めると、近くの借上げ住宅で避難生活を送っている、今年67歳になるSさんに会った。これから避難生活の日課になっているラジオ体操をするという。ベンチの上には携帯のラジオが置いてある。
「一緒にしたいんですが、いいですか?」
「いいですよ。1人でやるよりも2人のほうがいいからな」
 こうしてSさんとともにラジオ体操をし、話を伺うことになった。

 福島第1原発から14キロ地点の南相馬市小高区に住んでいたSさんは、原発事故後に福島市や会津若松市の旅館やホテルを転々とした末、埼玉県に避難。さらに宮城県名取市に移り、南相馬に戻ることができたのは今年1月だった。その間に妻は乳癌の手術のために2度も長期入院。娘さんは避難先で出産した。
 「この2年3ヵ月を振り返れば、いろんなことがあった。10ヵ所ほど避難先を変えたんだからね。初めは親戚の者と30人くらいで避難していたため、ホテルも旅館も気を遣ってくれてね、半額にしてもらったこともあった。でも、何度もごせやける(頭にくる)ことはあったよ。高速道路に乗ろうとしたら『福島ナンバーの車はダメだ』なんていわれた。放射能に汚染されているということでね。1時間ほどかけて説得したら、乗ることはできたけどな。
 まあ、一番ごせやけるのはウソばっかりついてる東電だ。2年以上もこんな生活をしなきゃなんなくなったしね。これから小高の自分の家に行くんだが、ネズミの巣になっていて、糞だらけで臭くってしょうがない。布団の上で子育てをしてる。もう住めないことはわかってんだが、住み慣れた家を放ってはおけねえ・・・」
 そういってSさんは、借上げ住宅のほうに向かった。

 野球場を右手に見て、国道6号線下のトンネルをくぐるとサッカー場に建てられた小高工業高校の仮設校舎がある。
 「おはようございまーす!」
朝練の野球部員たちが次つぎと挨拶してくれる。2日前に終了した春季県大会で小高工業は3位となり、この6日から開催される山形での東北大会出場権を得た。昨秋から私は母校・原町高校野球部OBのFさんの情報により、2年生のエース・菅野秀哉君に注目している。対白河高校との3位決定戦では1人で投げ抜き、延長10回を制した。スコアは4対3。この夏の大会が楽しみだ。
 「山形では思いきり暴れてこいよー!」
そう檄を飛ばす私に、部員たちは元気顔で応じる。
「ありがとうございます!」

 仮設校舎に隣接してテニスコートがある。朝の5時過ぎから早朝テニスをしている。顔馴染みのTさん夫妻も汗を流していた。
 「6月から2ヵ月間はできなくなるんですよ。人工芝を張り替えるためにね。何でも高圧洗浄機で除染したため、人工芝があのように剥がれちゃったのよねえ。だから、張り替えるんだって。だったら初めから新しいのに張り替えればよかったのにねえ」
 そう語るTさんの言葉に頷き、私はいった。
「昨年度の予算の使い残しが400億円以上あるというから、市役所も使うのに必死なんじゃないですか?」
「そうかもしれないわねえ・・・」

 この日の午前中。私は「みちのく野球場」に行った。
南相馬市鹿島区の右田浜海岸から約2キロ地点。3・11前、海岸方向には防風と防砂のための松林を臨むことができた、みちのく鹿島球場は田畑に囲まれたのどかな田園風景の中にあった。2001(平成13)年、湘南シーレックス対巨人戦のこけら落としで開場され、隣町の相馬市にある相馬高校出身の巨人選手・鈴木尚広がスタメンで出場し、その俊足ぶりで活躍した。
 以来、毎年のようにプロ野球2軍の試合が開催され、野球ファンを喜ばせていた。それに野球少年たちにとっても、ここでプレーするのが夢だった。なにせフェンスもあるし、バックスクリーンもあり、外野は芝生だ。と同時に野球場は、災害が起きた際に命を護ってくれる重要な避難所でもあった。
ところが、野球場に避難した住民が犠牲者となったのだ。

 昨年11月。私は鹿島野球スポーツ少年団監督であり、南相馬消防署鹿島分署勤務のレスキュー隊員のKさんに会った。
 あの3・11の夜、仲間の隊員とともに生存者の救助と遺体捜索の任務を遂行。瓦礫と泥水の中を手さぐり状態で一歩ずつ進み、みちのく鹿島球場に着いたのは真夜中だったという。グラウンドは瓦礫と土砂で埋まり、足を踏み入れることができないほどの惨状だったが、Kさんはあらん限りの声を張り上げた。
 「救助にきたぞお!」
するとスタンドの上に人影が確認することができた。命からがら押し寄せる津波を逃れ、スタンドによじ登った人たちだった。上半身裸のパンツ姿の人もいた。再びKさんは大声をだした。
「グラウンドには何人くらいいるんだあ?」
その言葉に救助を求める男は、憔悴した声でいった。
「20人くらいでねえが、もっといるかも知んねえだ・・・」
 Kさんは、当時のせつない思いを語った。
「その夜はグラウンドに入ることはできなかった。土砂はフェンスほどの高さまであって、どうしょうもなかった。数日後に土砂を取り除くと何人もの遺体がでてきた・・・。私の場合、交通事故などで何度も惨い遺体は見ているため、手足のない遺体を目の前にしても驚かないですね。しかし、何体もの遺体を同時に見るのは初めてだった。それも泥にまみれた黒々とした遺体は・・・。とにかく、一刻も早く瓦礫の中から遺体を見つけ、家族の元に帰してあげる。それがレスキュー隊員の任務です・・・」

 どうして野球場で死ななきゃならないんだ―。
クローバーが生い茂るグラウンドに立った私は、両手を合わせた。

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