郡山市在住のIさんから電話が入った。苦笑しつついう。
「今日の朝、家の周りを測ったら未だ高いところで2マイクロシーベルト(毎時)もある。もう私は放射能漬けになりましたね・・・」
昨年春の郡山取材の際、夜に足を運んだ飲食店のご主人がIさんで、同年代ということもあり、私と気が合った。以来、郡山に出向くたびに車に乗せ、除染した学校や公園・グラウンドなどを案内してくれる。
「不思議ですよねえ。原発から郡山までは50キロも離れているし、その間には阿武隈山脈もある。それなのに南相馬と変わらない放射線量だしね。だから、みんないっていますよ。原発から飛散された放射能は北西に流れ、飯舘村を通過して福島市に辿り着き、そこから東北新幹線や東北自動車道に乗ってね。一気に南下したため郡山は汚染されたって・・・」
そう語るIさんを前に、私は頷く他なかった。たとえば、昨年5月末のJR郡山駅東口の放射線量モニタリングを見たら、なんと毎時0・981マイクロシーベルト。この数値は南相馬の市街地の2倍以上だったからだ。
ところが、そこから約500メートル地点にある駐車場は0・1台の線量。これはどういうことなんだ
「ここは昔、スーパーの倉庫だったんですが、土地・建物などすべて除染した。だから、親たちは子どもを連れてきて遊ばせている」
そうIさんが説明する建物の中を覗くと、多くの子どもたちが親たちと一緒に遊んでいた。
PEP Kids Koriyama(ペップキッズこおりやま)―。
3・11から9ヵ月後の一昨年12月に屋内型巨大遊び場として設置。1650uのフロアには砂場・30メートルダッシュコース・三輪車乗場・ボールプール・エアトラックなど、約20種類の遊具が設備されている。
このPEPは、郡山市役所主導で運営されているが、実は郡山市で開業する小児科医師のFさんが提唱。スーパーマーケット・遊具メーカー・飲料メーカーなどの協力を得た末、ようやく市側が重い腰をあげたのだ。つまり、民のパワーが発足させたのだ。
「震災と原発事故で福島県の環境は、子どもたちにとって窮屈になっています。将来を思うと心配です。健全に育つためにも、質の高い遊び、とくに身体を多様に動かすことができる遊び場をつくる必要性があったわけです・・・」
Fさんは私に、PEPを提唱した理由を簡潔に説明した。
私の知る南相馬市役所勤務のTさんは、毎週のように小学生の息子と娘を車に乗せ、PEPにきていた。
「いやあ、息子たちは30メートルのダッシュコースを何度も繰り返し走る。子どもが走り回る姿を見るのはいいもんですよ。こういった施設は南相馬にはないですから・・・」
ただし、医師のFさんはいっていた。
「たしかにPEPは、子どもたちにとってはいい遊び場なんですが、屋内での遊びや運動には限界があります。本来は太陽の下で身体を動かすのがいちばんいい。それには、たとえば広い公園や競技場の土や木々など、その周辺を徹底的に除染する。それを行政側は実施してくれるかということですが・・・」
ともあれ、発足から今月で1年5ヵ月。入館者は45万人を超えたという。
PEP取材から1ヵ月後の昨年5月。私はJR上野駅から特急ひたちに乗り、常磐線いわき駅で下車。各駅停車に乗り換えて次の草野駅で降り、田んぼ道を歩いて15分。1ヵ月前に開校した富岡養護学校の仮設校舎を訪ねた。3・11以来、養護学校の現状がほとんど報道されていないことに苛立ちを覚え、出向いたのだ。
朝の8時45分。生徒たちがスクールバスや保護者が運転する車で登校し、教員たちが玄関で迎える。が、生徒たちは教室に入らず、教員の手を引き、ブランコで一緒に遊び始めた。
「いつも生徒たちは動き回りたいんですね・・・」
養護学校一筋の校長のOさんは、私にいった。
福島第1原発から南に6・5キロ地点にあった、富岡養護学校は「動く学校」といわれていた。県内32校の特別支援学校の中で、小学部から高校部までの在校生全員が参加する運動会を開催しているのは、富岡養護学校だけだからである。それも地元住民と密着し「1日中身体を動かし、みんなで健康になろう!」をスローガンに毎年行っていた。
「リレー・徒競走・騎馬戦・ダンス・ヨサコイソーランもやっていたし、私たち教員たちが生徒たちに引っ張りだされ、借り物競走もやる。1日中身体を動かしていましたね。しかし、3・11後は運動会もできなくなってしまいました。それに、うちの学校には畑もビニールハウスもあったんですが、放射能で汚染されてしまった。すべてが原発爆発のせいです・・・」
各教室を案内しつつ、校長のOさんは語り続けた。
「3・11後の生徒たちは県内だけでなく、遠くは沖縄に保護者と避難した者もいます。県内に避難した生徒たちの避難先を巡回したんですが、ひどい状況でした。1畳ほどのスペースに3・4人でいる。声をだすと『うるせい!』と怒られる。相手は養護学校の生徒だとは知らないしね。そのため保護者が周りを気遣い、一晩中車の中で過ごした生徒もいました・・・」
仮設校舎ができたのは、私が訪ねる1ヵ月前であり、生徒たちは1年間ほど県内各地の養護学校9校に分散していた。その間、管理職の教員たちは何回も県側に、早期の仮設校舎建設を訴えた。しかし、なかなかいい返事はもらえなかった。
「正直、いつも養護学校の生徒は最後になるんだなあ、と思いましたね。県側は『何人の生徒が戻ってくるんだ?』『1人ひとりに聞いたのか?』という。そこで保護者にアンケートをだしたり、電話で聞いたりしました。それでようやくここに建ててくれたんです」
校長のOさんは、私に強い視線を向けていった。
「早く本来の『動く学校』にしたいです。生徒たちの騒ぐ声が聞こえなければ、そこは学校とはいえないでしょう・・・」
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