「スリー・トリリオン・エン・インカム!」と叫び、3兆円の経済効果があると、元皇族の血を受け継ぐJOC会長は胸を張る。そして、埋蔵金「4千億円の基金」を誇示する件の都知事。スポーツの本質を路傍に置き去りにし、「平和の祭典」を札束で買収しょうとしている。日本スポーツ界は、何処を目指そうとしているのか・・・。
復活の1勝に喜び 野球をあきらめない―
6月27日付の毎日新聞社会面トップに、以上のタイトルで社会人野球「オール双葉野球クラブ」の記事がでていた。たとえ1行でもいい、原発事故で翻弄されているフクシマのスポーツ事情を伝えなければならない。
福島県の太平洋側、通称・浜通りには「オールいわきクラブ」「いわき菊田クラブ」「オール双葉野球クラブ」の社会人野球チームがあり、企業チームはない。その3チームの中で原発の町・双葉町を本拠地とするクラブチームが、オール双葉野球クラブである。昨年5月の都市対抗野球第1次予選福島県大会で、原発事故後に1年2ヵ月ぶりに出場したが、この1年間は出ると負け。初戦敗退を繰り返していた。が、ついに6月の全日本クラブ野球選手権福島県大会で初戦を突破したのだ。
「たしかに勝利までの道は長かったです。でも、選手だれもが"ALL FUTABA"と書かれたユニホームを着て、野球ができるだけでも幸せだと思っている。試合や練習のたびに朝の4時起きで、いわき市の仮設住宅や借上げアパートから会場にきてくれる。選手たちは試合の結果より、野球ができるだけで満足なんですよ」
双葉町生まれ。福島第2原発で働きながらチームを切り盛りする部長役のKさんはいった。12年前にチームを発足し「さあ、これからだ」というときに3・11がきた。
双葉リトルリーグの事務局長を兼務するKさんは、双葉町の野球に対する思いはだれよりも強い。続けて語る。
「企業チームとは違い、クラブチームは大会に出るにもエントリーフィーが4万円、5万円とかかる。そのため地元のパチンコ店や不動産屋などから資金を募ったり・・・。それで10年目を迎えたときにドーンでしたから。岡さんには何度も同じ言葉を繰り返しますが、今は『双葉の野球の灯りは消さないぞ!』の思いだけです」
この思いは監督のYさんも、コーチのSさんも同じだ。
「私も第2原発で働いているんですが、3・11後は周りの見る目が変わった。本音をいえば、かなりストレスが溜まっています。だから、思いきり野球をしたい。今は若い選手を指導し、双葉の野球を守ることです」
そうYさんがいえば、Sさんもいった。
「我われは原発で働いている関係者だから、何もいえない立場にいる。辛いですね。私は甲子園に2度出場している双葉高校のOBですから、双葉の野球の灯りは消しません。こうして若い連中もきてくれるし、我われ大人が頑張らないとついてきてくれません。やるのみですよ」
現在、選手は25人。毎週土・日は練習日になっているが、グラウンド確保もままならない。試合で遠征するいわき市のリトルリーグの練習場を借りることが多いという。
ちょうど1年前の6月。私は選手たちから直接話を聞いた。
3・11のとき福島第2原発で働いていたため「身の危険を感じた」というWさんは、学法石川高校時代に夏の甲子園出場を果たした。
「一塁手の控えで、背番号は13でした。初戦の岡山理大附属戦ではサヨナラ負け。かなり悔しかったんですが、岡山理大附属は勝ち進んで準優勝してくれましたから。まあ、納得しました」
そう語るWさんに、私は聞いた。
「甲子園の砂はどこにありますか?」
「原発から20キロ地点の楢葉町の自宅にあります。今住んでる仮設住宅に持ってきてもいいんですが、いずれ自宅に戻れると信じています。だから、甲子園の砂や思い出の物は、すべて自宅に残してきました。たぶん、早く私が帰ることを待っていると思います」
甲子園の砂が帰るのを待っている―。
福島県高校野球の強豪チーム・聖光学院野球部OBのDさんは、3・11後の1年間は「野球どころじゃなかった」という。
「自分は飲料メーカーの営業をしているんで、避難しても1週間でいわき市に戻り、自販機やスーパーに品物を運んでいた。まあ、今はこうして野球ができるけど、原発で働いている友人たちのためにも頑張りたいです。マスコミは『東電が悪い、原発は危険だ!』といってるため、だいぶ落ち込んでいるもんで・・・」
その原発で働いていたNさんが話す。
「私は東電の下請け会社に就職し、第1原発で働いていたんですが、いろいろと考えた末に辞めました。高校卒業4年目だったため、本当は辞めたくなかったんですけど・・・。今は埼玉の病院に勤めていますが、やっぱり双葉の人たちと野球がしたいです。とにかく、こうしてユニホーム姿になれるだけでも嬉しい・・・」
3・11以来、この6月にようやく念願の勝利をものしたオール双葉野球クラブ。部長役のKさんはいった。
「これまでの1年間は野球ができるだけでも幸せだった。しかし、我われでも勝てることがわかりましたから、これからはもっと気合いを入れてやります。ミーティングで『これからは勝ちにこだわる"双葉野球"をやろう!』って、選手たちにハッパをかけました・・・」
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