「私は家庭内野党。原発反対です」と無邪気に口にするという、恋女房の言動をどう考えているのかは知らない。が、ダンナは海外に出向くたびに日本の原発技術を売り歩く。このダンナを私は「原発行商人首相」と命名したい。 7月9日の早朝。スウェーデンから帰国した私は、久しぶりに手にした新聞1面の見出しを見てあ然とした。 冬にも再稼働政権が後押し5原発10基、安全審査を申請― やっぱり、この国の政府と電力会社は狂っている。ヒロシマ・ナガサキを忘れ、フクシマの人たちを棄ててしまった。 あなたたち家族の部屋は確保しました。遠慮しないでスウェーデンにいらっしゃい―。3・11の際、そうメールで気遣ってくれたのが家人の友人である、スウェーデン人のダンとエヴァ夫妻だった。 そのお礼もあり、私はスウェーデンに出向いたのだが、もちろんそれだけの理由からではない。この9月20日に東海教育研究所から出版する『大島鎌吉の東京オリンピック』(仮題)の最後の取材として、どうしても101年前の1912(大正元)年に日本が初出場を果たした、第5回オリンピック・ストックホルム大会のメイン会場となった、ストックホルム・スタディオンを見たかった。 それにもうひとつ。スウェーデン・ノルウェーを中心にした北欧が何故に「みんなのスポーツ」の先進国といわれるのか、この目で確かめることにより、新たな「原発禍におけるフクシマの現実」を違った角度から感得できる。そう考えたからだ。 成田から北京経由で約15時間で、白夜のストックホルム・アーランダ空港に到着。税関での手続きを終え、出口までの通路を歩いているとABBAの懐かしい『Dancing
Queen』の歌声が聞こえてきた。通路の壁面にはサッカー・ハンドボール・陸上・水泳・アイスホッケーなどのスウェーデンを代表するアスリートたちの実物大以上の写真が飾られ、それぞれが「Welcome
to my hometown」と出迎えてくれた。ゴルフのアニカ・ソレンスタム、テニスのビョルン・ボルグは当然として、なんとIOC(国際オリンピック委員会)理事のグニタ・リンドバーグまでもが微笑んでいる。 初めての白夜をほとんど寝ないで翌朝を迎えた私は、昼前にストックホルム・スタディオンに出向いた。地下鉄に乗り、スタディオン駅で下車すると、ホームには101年前のストックホルム大会に使用されたポスターが展示されていた。 アポなしでもスタジアムに入ることができるのだろうか・・・。 そのような思いを胸に抱いて地上にでると、総煉瓦づくりのスタジアムがあった。道路から眺めていると、関係者と思われる人を見かけたので声をかけてみた。 「すみません。日本からやってきたんですが、中に入れますか?」 「オッケー!ここはだれでも入れるんだ。どうぞ」 そういって鍵を外してくれたのは、マーティン・ゴッチさんだった。日本人であることを告げたからだろうか、気軽にスタジアム内を案内してくれたのだ。 「このスタディオンは、1912年にオリンピックが開催された際に開場され、改修されたことはあるけどね、101年前とまったく変わらない。建物は煉瓦造りで観客席や柱は木造だね。この煉瓦を見てください。ここに名前が刻まれている人が煉瓦を造ったんだ。この円形のレリーフは、アメリカのオリンピック委員会が、素晴らしいスタディオンということで1912年に寄贈したものだね・・・」 ゴッチさんは私を案内し、次つぎと説明してくれた。 「日本が初めてオリンピックに出場を果たしたのは、ここで行われたストックホルム大会です。2人の選手が参加しました」 そう私がいうと、ゴッチさんは笑みを見せながらいった。 「その話は、私も知っているし、スウェーデンでは有名です。カナグリさん(金栗四三)というマラソンランナーは、オリンピックのレース中に応援する人にビスケットとお茶をいただき、そのまま民家で眠ってしまったということです。それで55年後でしたね。オリンピック開催55周年式典のときにカナグリさんは、ストックホルムにきてくれて、ゴールした。そのときは新聞やテレビのニュースで大きく報道されました・・・」 たしかに金栗は、55年後の1967(昭和42)年にスウェーデンの招待で式典に出席。競技場を走り、ゴールしている。そのとき「日本の金栗、只今ゴールイン。タイム、54年と8ヵ月6日5時間32分20秒3.これをもって第5回オリンピック・ストックホルム大会の全日程を終了します」という、粋な場内アナウンスが流された・・・。 ゴッチさんと別れた後、私はトラックをゆっくりと歩いた。1930(昭和5)年、関西大学の学生だった21歳の大島鎌吉は初めて渡欧。2ヵ月半に亘り、フィンランド・スウェーデン・ノルウェー・エストニア・フランス・スイス・ポーランド・ドイツなどを転戦。各国の選手たちと親交を温めつつ、この煉瓦造りのストックホルム・スタディオンでも跳んでいるはずだった。三段跳の砂場前に立ち、大島が跳んでいる写真を何度も脳裡に蘇らせた・・・。 生前の大島は『ピエール・ド・クベルタン オリンピックの回想』(カール・ディーム編)を筆頭に多くの訳書を出版。クーベルタンの論文なども訳している。その中でクーベルタンは、ストックホルム・スタディオンを「永久施設で後に残るものであった」と絶賛し、それを念頭に1930年に発表した論文『スポーツの改革に関する原則』では「スポーツ的余興だけを目的に都市の役人が考えるマンモス・スタジオンの建設を軽蔑する」と喝破している。 2020年開催のオリンピック招致に躍起になっている東京は、招致成功の際は総工費1300億円をかけて国立競技場を建設するという。現在の国立競技場が開場したのは、55年前の1958(昭和33)年である。 (この項つづく) |