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vol.644-1(2015年8月6日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−8
 「失速」をどう止めるか

 オリンピックという言葉が少し色褪せたような気がした。2022年冬季五輪の開催地が北京に決まった時のことだ。

 2008年の北京夏季五輪は、豪華さ、国を挙げての盛大さが目を奪ったが、一方ではまた、巨費をつぎ込んで国威発揚を狙う意図ばかりが露骨に見える大会でもあった。人権問題、環境問題がしばしば指摘されたことからもわかるように、一般の民意とは関係なく、共産党政権がその強大な権力を思うままに誇示するための舞台だったとも言えるだろう。IOCは「成功」と評価したが、本来の精神からすれば、オリンピックの名にふさわしい大会ではなかったと思う。その後、「アジェンダ2020」に象徴される方向転換が打ち出されたのも、そのことと無縁ではないと感じる。
 なのに、今度は冬季オリンピックだ。2008年の施設も利用して経費を抑えるとはしているが、また絢爛豪華一辺倒の国威発揚大会が繰り広げられるのだろう。それに、もともと北京に冬季競技のイメージはない。氷はともかく、雪上競技の方は遠く離れた張家口で行われるという。それでも北京を冬季五輪の会場にする意味があるのだろうか。結局は開発のため、また2008年と同様の権力誇示のための大会になるのではないか。
 それもこれも、2022年の開催を考えていた都市が次々に消えたからである。それはまさしく、「そして誰もいなくなった」と言いたくなるような状況だった。5兆円の開催経費が使われたという2014年のロシア・ソチ大会も、夏季の北京と同じく、カネの力と国力誇示に明け暮れた大会で、そのあたりの状況に嫌気がさした欧州の各都市が相次いで立候補を撤回してしまったのだ。IOCは費用削減の方針を打ち出したが、2022年をアジアの二候補から選ばざるを得ないという苦境は変わらなかった。その中で、国際的な知名度でははるかに劣るカザフスタンのアルマトイがわずか4票差に肉薄したのは、IOC委員たちの苦しい思いを端的に表している。
 とはいえ、結果的には今回も圧倒的な財力にひざを屈するしかなかった。すべての面で野放図な拡大を許し、それどころか先頭に立って豪華・大規模路線を開催地に強いてきた無定見のツケが、いまIOCに回ってきたと言うしかない。
 しかも、これは冬季大会だけの事情ではない。夏季大会は相変わらず引く手あまたのように見えるが、2024年に手を挙げていたボストンが、地元の反対などで招致を断念したことは、オリンピック招致・開催の底流に生まれた冷え込みが予想以上に広がっているのを示している。パリ、ローマ、ハンブルクなど欧州の有力都市が立候補の予定とはいえ、世界のスポーツの中心にあるアメリカが開催に背を向けた(代替候補の可能性はあるが)という事実は、IOC首脳を凍りつかせたはずだ。今回、再び北京を選ばざるを得なかったことは、そうした流れを、すなわちオリンピックおよびオリンピック運動の失速をあらためて浮き彫りにしたように思う。

 IOCはここで何をすべきか。欠かせないのは「反省」の表明だと思う。これまでの路線への明確かつ具体的な反省。それをはっきりと打ち出してこそ、現状への不信感の払拭につながる。アジェンダ2020はある程度の方向転換を示してはいるが、それでは足りない。IOCはこうした状況を招いたことへの責任をしっかり認め、カネの力や権力誇示、またビジネス面などばかりが肥大していびつになった現状への反省をきちんと示したうえで、カネをかけ過ぎない五輪、本来の精神を生かした大会への具体的転換の姿勢を打ち出すべきだ。

 TOKYO2020の責任も大きい。5年後に向けて、東京がどのような方向を目指そうとするのか。それはこれからのオリンピックがどうなっていくか、あるいはどうしていくべきかを示す大きな指標となる。新国立問題などでつまづいている場合ではない。組織委をはじめとする関係者は、その重い責任をどこまで感じているだろうか。

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