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vol.645-1(2015年8月20日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−9
 「五輪と同じに」でいいのか

 TOKYO2020が決まって以来、オリンピックばかりでなく、パラリンピックについても取り上げられることが多くなっている。ブームと言ってもいいほどの状況である。が、そこにはちょっと違和感がある。
 もちろん、パラリンピックに代表される障害者スポーツはもっと注目されるべきだと思う。注目を集めるにふさわしい素晴らしさがそこにはある。ただ、その幅広い、多様な内容を見つめもしないで、いわば「オリンピックのついでに」もてはやすのでは、しょせん一過性のブームにしかならない。

 パラリンピックをオリンピックと同じようにしたいという声をよく聞く。オリンピックと同じくらいの華やかさや注目度がパラリンピックにもあるべきという主張だ。それにとどまらず、オリンピックとパラリンピックを一体化させてはどうかという論も、近ごろはよく見かけるようになった。
 一方では、競技という面でも両者を同じようにとらえるべきとの声も高い。いまやパラリンピックで好成績をおさめるには、一般スポーツのトップ選手のように競技に専念しなければならないともいわれる。障害者スポーツには必須のクラス分けを見直すなどして、パラリンピックのメダルの価値をもっと高めていくべきだともしばしば指摘される。

 そうだろうか。本当に、オリンピックとパラリンピックを「同じものに」すべきなのだろうか。

 オリンピックもパラリンピックも、スポーツを愛する者たちが、より先を、より高みを求めて集まり、競う祭典であるのにまったく変わりはない。ただ、単純明快な競技力の争いであるオリンピックと違って、パラリンピック、障害者スポーツにはきわめて多様な側面がある。たとえば細かいクラス分けには、できるだけ多くの選手たちが参加できて、なおかつ対等に競える場をつくっていきたいという、根本的なところでの意味が込められている。さまざまな困難を超えてスポーツを愛し、競技に取り組む思いのすべてを包み込もうとする大会がパラリンピックなのだ。メダルの価値を高めるとしてクラスを減らしたりすれば、多くの選手が活躍の場を失うことになる。それでは本来の精神が希薄になってしまうのである。
 パラリンピックには独自の精神があり、意義があり、魅力がある。オリンピックの後ばかり追う必要はない。そして見る側としては、その本来の意味や精神をしっかり理解したうえで競技を楽しむようにしたい。そうでなければ、その多様な魅力を本当に味わうこともできないはずだ。

 いまのブームは上滑りしているように思える。とりあえず建前として「パラリンピックは重要だ」と強調しているようなところも見受けられる。内容をちゃんと知らないままで「すごい迫力だ」などと持ち上げるのが目立つあたりにも底の浅さを感じる。どんな形であれ注目されるのはプラスだと思うが、ただ一時のはやりもののように扱われるだけでは将来につながっていかないだろう。

 障害者スポーツの強化には大いに力を入れるべきだと思う。ただ、それはトップだけでなく、障害のある人すべてのためになる形でなければならない。障害者がスポーツに親しめる環境がほとんどない現状。まずは多くの人がスポーツに取り組める状況を整えるのが先決だ。そうした中から傑出した選手が現れ、活躍するようになれば、それこそがパラリンピックにふさわしい。メダルの数などではなく、スポーツ環境そのものの実現。2020年にパラリンピック大会を東京で開く意義はまさしくそこにある。

 健常者の側としてまず大事なのは、関係者もファンもメディアも、できるだけ障害者スポーツの現場に足を運ぶことだ。さまざまな選手、さまざまな競技、さまざまな側面を間近に見れば、それだけ理解が進む。真の魅力も見えてくる。建前だけで論じていても、2020年の成功は見えてこない。

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