8月初旬開幕の高校野球・夏の甲子園大会に向け、各都道府県で地区大会が行われている。福島大会は7月7日に開会式が行われ、今夏は84校78チームが参加している。しかし、福島第1原発から半径20キロ圏内に位置した、双葉高・双葉翔陽高・富岡高・浪江高・浪江高津島校(軟式)の5校は原発事故の影響で休校となり、野球部は廃部となった。
3・11前、浜通りの原発のある相双地区の高校野球部は11チームあったが、現在は7校6チームに減り、292名だった部員も半数の146名だ・・・。
2ヵ月前の5月22日。私は会津若松市のあいづ球場で行われた春季東北地区高校野球福島県大会の決勝戦を取材した。部員130名を擁する、県内随一の強豪校の聖光学院がいわき光洋高を寄せ付けずに18対3で快勝。観客からは「夏も聖光学院かあ・・・」といった、溜息まじりの声が聞かれた。
その会場で私は久しぶりに菅野秀一さんと紺野勇樹さんに会った。3・11当時、菅野さんは私の母校・原町高の部長で、紺野さんは浪江高の監督だったが、現在の2人はともに白河高に転任。菅野さんは部長、紺野さんは監督に就いている。
「そもそも私の場合、家族は白河市に住んでいて、3・11のときは単身赴任でアパート住まいをしながら原町高に赴任していた。この6年間を振り返れば、中味が濃いというかすごかった。原発がある故郷の富岡町はほとんどの住民が避難し、実家は未だに帰還困難区域のために帰れない。放射線量が高くてね。母校の双葉高の野球部はなくなるし、この3月で休校になったし、悲しいことが多すぎる・・・・・・」
そう菅野さんは振り返り、紺野さんも語った。
「3・11を忘れろと言われても無理です。原発事故もあるし、あのときは『はたして我々は生きのびることができるか』ということで、部活よりも命のことを考えていた。だから、1ヵ月半後の5月3日に避難先の二本松市のグラウンドで、県内外に避難していた12人の部員と女子マネに再会したときは涙がでた。他県の高校に転学した部員も集まってくれたしね・・・・・・。地震と津波だけならまだしも、原発事故も起きたためチームはばらばら。監督になって3年目でチームがようやくできあがり『さあ、これからだ』というときにドカンでしたから・・・・・・」
白河高野球部を率いる菅野さんと紺野さんは毎年春、チームを連れて相双地区に遠征している。白河高に赴任して5年目の紺野さんは説明する。
「3・11後、浪江高時代の私たちは毎月11日に黙とうをしていた。ところが、中通りの白河高に赴任したら、3月11日でも黙とうをしない。同じ福島なのに温度差があった。だから、生徒や部員に俺たちだけでも黙とうをしょうとね。それに、もろに3・11の被害に遭っている私たちは、被害状況を伝える責任があるのではないかと考えた。それで菅野先生と一緒に選手を連れて原発禍の相双地区に行こうと・・・・・・。たとえば、改修される前のみちのく鹿島球場に行き、選手たちに『ここで多くの人が亡くなった』とかね。恵まれない環境の中で野球をする相双地区の高校と練習試合をし、私が知ってる先生に3・11当時の話をしていただいたり・・・・・・。震災当時、今の高校生は小学生で記憶が薄れていると思うので、いつまでも忘れないで欲しいですからね」
紺野さんの言葉に、部長の菅野さんは頷いた。
2日後の5月24日、故郷・南相馬市に帰った私は、みちのく鹿島球場に出向いた。
16年前の2001年9月、湘南シーレックス対巨人戦のこけら落としで開場されたみちのく鹿島球場は、毎年のようにプロ野球の2軍戦が開催され、多くのファンを喜ばせていた。野球少年たちにとっても、ここでプレーすることが夢だった。なにせフェンスも、バックスクリーンもあり、3000人収容のスタンドもある。そのうえ地元住民にとってみちのく鹿島球場は、災害が起きたときに命を護ってくれる重要な避難場所でもあった。
ところが、東日本大震災がすべてを奪った。海岸沿いの松林をなぎ倒して押し寄せた津波は、避難した住民を直撃した。かろうじてスタンドにいた者は助かったが、グラウンドにいた者は津波に襲われた。球場と、その周辺で命を奪われた8歳から88歳までの犠牲者は実に54人。瓦礫と土砂の中に生き埋めとなったのだ・・・・・・。
現在のみちのく鹿島球場は改修され、隣接して54人の犠牲者の名が刻まれた慰霊碑が建っている。私は両手を合わせた・・・。
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