9月5日、プロ野球の巨人は26年ぶりに長野県松本市で公式試合をしたという。そう翌日の新聞に出ていたが、私の場合は50年ぶりの松本市だった。
それは1967=昭和42年の夏。高3の私はインターハイ出場のために松本市に滞在していた。その期間中の8月1日、地元松本深志高校の生徒たちが西穂高での学年登山中、落雷で遭難。11人の若い命は奪われた。私が出場する競技には松本深志高の選手もいたため、この事故は若かった私の脳裏に刻まれた。そのためだろう、夏を迎えるたびにいずれ松本を訪ね、慰霊碑を前にしたいと考えていた。
あれから半世紀の星霜を経た8月、私は長野市での取材を終えた後に松本市に寄り、ようやく松本深志高を訪ねることができた。犠牲者11人の名前が記された「西穂遭難慰霊碑銘」を前に、両手を合わせた。心が落ち着いた・・・。
長野から埼玉の自宅に戻った10日後の8月29日の早朝。北朝鮮は弾道ミサイル発射し、3時間ほど経った頃だ。南相馬市の知人から電話があった。
「岡よ、朝っぱらからJアラート(全国瞬時警報システム)が鳴りだしな、すごかったよ。まさに空襲警報だね。でもよ、どこに逃げていいかわからなかったな・・・」
それから4日後に私は再び南相馬に出向いた。滞在2日目の9月3日、北朝鮮は6度目の核実験をした。それに対し安倍晋三首相は声明を発表した。
断じて容認できない。我が国の安全に対する、より重大かつ差し迫った新たな段階の脅威だ―と。
続いて河野太郎外務大臣も北朝鮮に「最大の圧力をかける」と言った。
しかし、フクシマの原発禍の人たちは閣僚たちの「核実験反対」の言葉を信じたとは思えない。3.11後も安倍首相は原発推進政策を強く打ち出しているし、以前から原発推進に疑問を持ち「核燃料サイクル停止」を叫んでいた河野太郎でさえも、閣僚入り後は原発問題に関しては封印してしまった。加えて日本政府は「核兵器禁止条約」に参加することを拒否したのだから・・・。
今年の春、国は「住民が生活できる環境がおおむね整った」とし、原発から半径20q圏内の「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」の避難指示を解除した。つまり、「帰還困難区域」以外は自由に出入りでき、居住できるようになった。
そのため不通になっていたJR常磐線の小高駅と浪江駅の8.9qの区間も再開した。しかし、町全域が放射能で汚染され、全町避難を余儀なくされた浪江町の住民約1万8500人のほとんどは未だに県内外に避難している状態だ。
私は南相馬市原町区のJR原ノ町駅から電車に乗り、浪江町に行った。乗車していた80代のお年寄りに声をかけるとこう言った。
「震災後は宮城県の名取市に避難してんだ。この4月から電車に乗ってな、こうして浪江にこれるようになったけどな、家ん中はイノシシやアライグマに荒らされている。息子夫婦は感染症が怖いから行くなと言うけど、やっぱり長年住んでた家を見るだけで落ち着くんだよ・・・」
もう1人、3.11の2年前に家を新築したという40代の農家のお父さんも言う。
「新築して2年しか住めなかったけど、この秋には解体することにした。理由? 解体しないとな、来年度から固定資産税を払わなくっちゃなんねえ。放射能で汚染された住めねえ家なのに、役場は税金を払えと言う。おかしいんじゃねえか・・・」
終点のJR浪江駅で降りた。駅員に尋ねた。
「1日の乗降客は何人くらいですか?」
「そうだなあ、10人くらいだよ・・・」
この夏、実家から徒歩で5分ほど行ける南相馬市スポーツセンターで「復興支援¢S国ホープス北日本ブロック卓球大会」が開催された。出向くと運よく福島県卓球協会の重鎮のSさんに会えた。
「岡さん、いっぱい取材して書いてくれ。20q圏内の小高区なんかね、人が住めるようになっただろ。ところが、人が住めるようになったということでパトロールが手薄になり、逆にドロボーが増えてるよね。夜に帰ると、買ったばかりの電子レンジや洗濯機などが無くなってる。そういったことも書いてくれ・・・」
Sさんの言葉に私は頷くばかりだ。
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