「批評性」「論評性」「文化性」の視点からスポーツの核心に迫る―スポーツ・コラム

佐藤 次郎/スポーツライター

VOL.718-1(6.29)
 「五輪の風景」-58
 「混合団体」に異議あり


 近ごろ、国際スポーツ界、ことにオリンピックの関係で飛び交っているキーワードのひとつが「混合団体」だ。つまりは、男女がひとつのチームに加わる団体種目が増えているということなのだが、この傾向はどうなのだろう。それぞれの競技の本質とは関係ないところで進んでいる話ではないのか。
 オリンピックを取り巻く現状、とりわけビジネス偏重による経費の膨張で大会開催を望む都市が減っているのにようやく強い危機感を抱くようになったIOCだが、大会の内容をどうしていくかについては、相変わらずテレビ放映やスポンサー獲得への受けを狙ったことばかり考えているようだ。若者のスポーツ離れの対策と称してシティースポーツ、エクストリームスポーツ系の種目を多く取り入れたり、やはりテレビ受けを考えて団体種目を増やしたりしているのである。女性参加の比率を高めるとして、男女混合チームによる団体戦を増やそうとしているのはその象徴とも思える。
 そもそも個人が競う競技に団体戦を入れるのは邪道だ。もちろん卓球のように以前から団体戦が行われている競技もあるが、それはあくまで例外にすぎないのではないか。国別の団体戦となると見る側の思い入れも強くなるので、テレビの視聴率アップには格好のコンテンツではあるだろうが、だからといってどんどん団体種目をつくるのはどうなのか。それぞれの競技の本来的な魅力とはまったく関係のないところで、ただの人気取りのために行われているように思えて仕方がない。
 そこに女性を加えて、男女が一緒に戦うとなれば、見る側へのアピールはさらに高まる。とはいえ、そこにはどうしても「無理につくった」感がつきまとう。どの競技にせよ、トップレベルでは男女の絶対的な能力も異なるし、おのおのの特色や見どころも微妙に違ってくるのだ。それぞれに、それぞれの魅力があるのだから、無理に一緒にする必要はない。女性の参加を増やすという大義名分はあっても、それは建前にすぎないのではないか。そこにはやはり、男女混合の団体という派手な演出による人気取りの思惑が透けて見える。
 そもそも、女性参加という面を考えれば、世界にはまだ女性がスポーツに取り組む環境が整っていない地域がたくさんあるのだから、IOCとしては、まずそれを変えていくための対応を考えるのが先だろう。混合団体種目をつくっても、参加するのはスポーツ先進国ばかりだ。それを女性重視のためといわれても、素直にうなずくわけにはいかない。
 なのに、2020年東京オリンピックでは、新たに混合団体や混合リレー種目がいろいろと採用された。柔道やアーチェリーの混合団体。陸上や競泳、トライアスロンの混合リレー。卓球や射撃、セーリングでも混合種目が行われる。IOCが女性重視の姿勢を強く打ち出せば、各競技連盟もそれに合わせて新種目を提案していくことになるというわけだ。ただ、これが果たして、本当に女性スポーツの振興につながるのかといえば、多くの疑問が残る。
 スポーツが時代に即して変わっていくのはわかるし、オリンピック種目もそれに伴って変わっていくのは当然だろう。が、オリンピックはただ時代の変化に従っていればいいものだろうか。歴史と伝統を踏まえたスポーツ文化を大事に守っていくのもまた、その大きな役割ではないのか。だとすれば、競技の本質を離れて人気取り、受け狙いにばかり走っていていいわけはない。
 そうした新種目を取り入れることによって、2020年大会の種目数は過去最大に膨れ上がるという。そこでIOCは、陸上やウエイトリフティング、レスリングなどの選手数を削減した。そこにはドーピング違反が多いからという理由がつけられている。確かにそれはとがめられるべきことだ。とはいえ、ドーピングの横行がやまないのにはIOCの責任もあるだろう。新種目をいろいろ採用する一方で、伝統もあり、世界中に普及もしている競技の選手数を削減することには、いささか釈然としないところが残る。
 おそらく、団体種目、わけても混合団体や混合リレーは一般受けするだろう。が、それが、個人が競う競技の本質に沿ったものかといえば、首をかしげる関係者は少なくないはずだ。


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