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vol.742-1(2018年1月25日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−73
 なぜ「心はずまない」のか

   平昌冬季大会が間近に迫ってきた。だが、いよいよ開幕といっても、さほどの感興はない。オリンピックにはつきものの心はずむ思いがあまり湧いてこないのである。
 夏季大会に比べれば注目度の落ちる冬季とはいえ、4年に一度の祭典が始まるとなれば、見る側も気持ちがたかぶってくるものだ。なのに、今回はそれがない。テレビが「開幕間近!」とあおっても盛り上がりがいまひとつなのは、やはり、さほどたかぶりを感じないスポーツファンが少なくないからだろう。
 これはいったいどうしたことなのか。もちろん、この欄でも再三取り上げているような状況がまず土台にあるとは思う。ビジネス最優先の方向性や過剰な拡大傾向、またドーピングの蔓延などによって本来の姿が失われつつある状況は、スポーツの祭典たるオリンピックの輝きを著しく曇らせているのだ。それではファンとしても心ははずまない。
 それに加えて、平昌自体がどのような大会にしようと思っているのかがあまり見えてこないのも、関心が高まらない理由のひとつだと思う。大会開催にあたって明確な理念や方向性を打ち出すのは簡単ではないし、ましてそれを具体化するのが難しいのは言うまでもないが、それにしても、このオリンピックの過渡期にあたっては、それぞれの開催地になんらかの独自性、メッセージ性を求めたいところなのだ。三度の立候補でようやく開催権を射止めた平昌。オリンピックにかける意気込みは十分に思えるが、その情熱を実際の大会にどう生かそうとしているのか。「平昌ならでは」「初めて冬季五輪を開く韓国ならでは」の大会像が見えないのでは、全体的な盛り上がりがいまひとつにとどまるのも致し方ないだろう。
 そしてもうひとつ、スポーツファンにとってはどうしても気にかかるところがある。開幕直前になって、政治的な側面があまりにも表に出過ぎているのがなんとも気になるのだ。
 北朝鮮の参加が決まったのはいいとしても、それは結局、韓国、北朝鮮両政権がそれぞれに抱える政治的な思惑や軍事的な駆け引きの産物のように思える。オリンピックそのもの、スポーツそのものとは無縁の世界で決まったように感じられる。果たしてそれがオリンピック運動に大きなプラスとなるのだろうか。スポーツの祭典としてふさわしい成り行きだろうか。合同チーム結成、またIOCの自賛なども含め、スポーツファンとしては、大いに違和感を覚えずにはいられない。
 オリンピックが国際政治と無縁でいられないのは十分に承知している。時にはIOCやスポーツ界があえて政治を受け入れ、あるいは自ら政治的な判断をせざるを得ない場合もあるだろう。とはいえ、オリンピックという世界共通の財産を守っていく立場としては、他に影響されない独立性、安易に政治的思惑などを受け入れない主体性を基本とする姿勢をあくまで保ち続けなければならない。その姿勢を堅持し続ける決意を常に内外へ強調しておくことも必要だ。となれば、「オリンピックの政治利用」との批判も受けていることがらを、平和や友好といった美辞麗句に包んで丸ごと受け入れてしまうようなやり方は厳に慎まなければならないのではないか。
 何度も言うようにオリンピックはスポーツの祭典なのであり、IOCや国際スポーツ界が主体性、独立性を失えば、オリンピックの本質もまた失われる。人々の心をはずませる魅力も薄れていく。そうなってしまえば、世界中のファンがしだいにオリンピックから離れていくのは避けられない。大会の開幕が迫っても、いっこうに心はずまないのが当たり前になりかねない。
 ともあれ、オリンピックはオリンピックだ。ファンが心をたかぶらせないまま終わるようではオリンピックの名が泣く。開幕後はぜひとも大いに盛り上がってほしい。そのためにも、平昌に集う選手たちには見る側の心を震わせる奮闘を望みたい。オリンピックならではの感動を味わわせてもらいたい。スポーツの祭典で主役になるべきは政治でもビジネスでも演出された平和や友好でもなく、競技そのものなのである。

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