平昌冬季大会開会式の感想を正直にいえば、「つまらなかった」となる。TV中継で見る限り、会場が沸き返るようなシーンはほとんどなかったように思うし、観衆を驚かせるような見せ場も見当たらなかった。ただし、それは「オリンピックの開会式としてよくなかった」「ダメな開会式だった」ということとイコールではない。
延々と続く華やかなショー。その国の成り立ちを逐一たどっていく歴史絵巻。最先端技術を駆使して、これでもかとばかり観客を驚かす演出。近年の開会式は、ビジネス重視によるショーアップの過熱や、政権基盤強化のための国威発揚政策などによって、巨費を投じて過剰に飾り立てたものとなるのが通例だった。それはまさに、スポーツの祭典という本来の姿からしだいにかけ離れていき、数々の問題を抱えるようになった現代のオリンピックの象徴といえるものだった。そこに、「開会式はこれでいいのか」の疑問が出てきたのは必然だろう。そこで昨今はその反省が少しずつ反映されるようになってきていたが、とはいえ、長年踏襲されてきた枠組みはそう簡単に変わるものではない。オリンピックのあり方を根本的に考えるうえでも、開会式改革はまず真剣に考え、具体的に取り組むべきことの筆頭と言えるのではないか。
そんな中で行われたのが今回の平昌の式だった。多くの目を引く派手な演出や、いかにもカネをかけたという感じのショーはほとんどないまま、式は2時間という比較的短い時間で終わった。豪華ショーや絢爛たる歴史絵巻を期待した向きには物足りなかったろうし、4年に一度の祭典のオープニングセレモニーとしては盛り上がりが足りなかったようにも思う。だが、先に述べた開会式改革の観点からすれば、過剰に飾り立てたショーの部分が少なかったのは悪くなかった。「鬼面人を驚かす」たぐいの演出がなかったのも、ある意味ではすっきりとした後味につながっていた。「あまり面白くない、はっきり言ってつまらなかったのだが、けっして『よくない開会式』というわけではなかった」とは、そういう意味である。
今回、そうなったのは予算的制約のゆえでもあるようだ。凍るような低気温の中、屋根のない会場で開くという事情もあったろう。IOCも近年はにわかに経費節減を言い出しており、それもある程度影響したかもしれない。つまりは、種々の制約によって仕方なく「簡素な開会式」になったのかもしれないというわけだ。平昌の組織委員会の本音がどこにあったのか、これまでの反省からこのような形になったのか、それはなんとも言えない。とはいえ、どんな理由であれ、飾り立て、過剰にショーアップした開会式を脱却したという事実には、それなりの意味があったと言えるだろう。
これは十分にひとつのきっかけとなり得る。IOCも、各国のスポーツ関係者も、スポンサーもテレビ局も、そして世界中のファンもこれを見た。もちろん評価はまちまちだろうし、面白くなかったという声もあるに違いない。ただ、オリンピックの開会式はこれでもいい、けっして一大スペクタクルショーでなくてもいいのだと気づいた人も少なくないのではないか。だとすれば、今回の例は開会式改革へのひとつの入り口となり得るはずだ。
質素で簡素な開会式。よけいな飾りや威信誇示などのない開会式。スポーツの祭典たるオリンピックにはそれこそがふさわしいと思う。簡素だから、カネをかけないからといって、見る者に訴えかけるところが乏しくなるかといえば、もちろんそんなことはない。1964年の東京オリンピックの開会式を思い出してみてほしい。ショーの要素などひとつも含まれていなかった。派手な演出にもまったく無縁だった。それでも、観客やテレビ視聴者にあれほど大きな感動をもたらしたのである。
もちろん時代背景が違うし、世相も違うし、国民の感覚もまったく違ってきている。簡単に並列で考えるわけにはいかない。それでも「率直に感動する」という気持ちにさほどの違いはないのではないか。いまは技術にしろ表現にしろ、さまざまな面で、半世紀前とは比べものにならないほど進化してきている。カネをつぎ込まなくても、シンプルな構成であろうと、知恵の絞りようしだいで十分に現代人を感動させることはできるはずだ。
平昌の開会式。意図したものか、各種条件による制約がそうさせたのかはともかく、これが開会式を変えるためのターニングポイントになればそれに越したことはないと思っているのだが、果たしてどうだろうか。
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