スポーツ界で世間の批判を浴びる出来事が続いた。一方はオリンピック競技であり、もう一方もスポーツ界全般に共通することのように思えるので、ここでもあらためて取り上げておきたい。
レスリングでは著名な金メダリストに対する指導者のパワーハラスメントが報じられ、日本協会もこれを認める事態が起きた。オリンピック4連覇の偉業を達成し、国民栄誉賞にも輝いた伊調馨選手に対するパワハラとは、なんとも衝撃的と言わねばならない。これは、指導者がしばしば陥りやすい思い込みによるものだと思う。
選手育成を一から手がけ、さまざまな課題を乗り越えてトップにまで育て上げるには並々ならぬ苦労があるに違いない。そこでコーチの側には、選手を自分の所有物ででもあるかのような思いが生まれがちだ。コーチがよく使う「私の選手」「うちの子」などの表現には、それが象徴的に表れている。指導者としては、まるで自分がつくり上げた作品のように思えてしまうのだろう。
もちろんのことながら、選手は指導者の所有物などではない。その役割とは、選手の秘めた能力をできるだけ引き出してやることに尽きる。選手というカンバスにコーチが自由に絵を描いて自分の作品とするがごとき意識は、スポーツ本来のありようをゆがめる。スポーツの場では実際にプレーをし、パフォーマンスをする選手こそが唯一の主役なのだ。すべての指導者は、「育ててやっている」というような自分中心の意識を排して、選手第一の姿勢を保たねばならない。すぐれたコーチ、実績のあるコーチほど、常に自戒しておく必要がある。
にもかかわらず、選手を「自分のもの」として扱いたがる指導者は少なくないように思う。スポーツ全般にかつてない注目が集まり、主役たる選手以外にも華やかなスポットライトが当たる傾向がそれを助長しているかもしれない。「自分のもの」と思いたがるから、選手が離れていくと、理由はどうあれ「裏切り」「離反」としかとらえられず、報復としてパワハラを働くことにもなる。今回のレスリングの件はその典型例だ。
問題の指導者は、指導を手がけてきた選手から金メダリストが多く出たことで、自らを万能の師とでも思い込んだのだろう。その結果、「裏から選手を支え、持っている能力を発揮できるように導いてやる」という本来の役割を忘れ、トップに君臨して自分を目立たせることしか考えないようになったのではないか。また、そうした状況をそのままにしておいた日本協会など周囲の責任も重い。これを契機に、すべての指導者はあらためて本来の役割、コーチのあるべき姿を思い起こしてみるべきだ。一方、選手の側も、コーチに頼り切りではなく、自立の意識をきちんと持つ必要があるのは言うまでもない。いずれにしろ、スポーツ界にしみついたこの弊風を拭い去るには、根本的な意識改革が不可欠と思う。
そして不祥事続きの大相撲では、またしても耳を疑うような出来事が起こった。急病で倒れた人物の救命にあたっていた女性に対し、女性は土俵を下りるよう、再三にわたってアナウンスしたという、あの一件である。あまりの非常識さに、たちまち批判の嵐が巻き起こったのは当然のことだろう。
土俵での女人禁制の根拠が曖昧なのもさることながら、何よりの問題は、国技ともいわれ、ある意味では公的な性格も持つ大組織にこれほどの常識の欠如が存在するということだ。一人の行司があわててやってしまった行為とはいえ、それは、閉鎖社会の中でのみ通用する理屈ですべてのことがらを律しようとしてはばからない非常識さが、組織全体に色濃くあることを示しているのではないか。数々の不祥事も同根であり、今回の一件は、これまでの反省が何ひとつ生きていない証左ともなっている。こんな体たらくでは、相撲界全体を「常識が通用しない世界」と決めつけられても、何の反論もできまい。歴史や伝統はもちろん大事にしなければならないが、人命より慣習を優先するような常識の欠如を見せつけられては熱心なファンも離れていく。当事者は危機感に乏しいようだが、このままでは間違いなく世間から見放されることになるだろう。
その世界だけにある慣行や不文律はどの分野にもある。スポーツ界全体も例外ではない。高度な運動能力を競うという特別な世界だけに、むしろそうした「自分たちだけの考え方」が強い傾向にあるともいえそうだ。となれば、どの競技でも、大相撲の一件を他人事と考えず、我がこととして自省する必要があるのではないか。「自分たちの常識は世間の非常識かもしれない」と自戒すべきではないか。
たとえば、世界中が注目するオリンピック大会にも、それを統括するIOCにも、一般常識とはいささかずれた考え方がないとはいえない。先に述べたように、スポーツにかつてない注目が集まる時代だからこそ、スポーツ界はあらためて自らのありようを真摯に振り返るべきだと思う。
|