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vol.750-1(2018年5月3日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−81
 「パラのこれから」、いまこそ考えたい

   パラリンピックはこれからどうなっていくのだろうか。大きく変わるのか、それともあまり変わらないまま続くのか。スポーツファンからの注目の度合いに変化はあるか。選手を取り巻く環境はどうなるのか。時折の取材も交えつつ見守っている身として、その変遷は楽しみでもあり、また、いささかの懸念も抑えられないというところだ。
 まず最初に自分の考えを明らかにしておこう。現在の形が変わっていくことに筆者は危惧を抱いている。そこで、あまり変わるべきではないとも考えている。現行の形が大きく変化するとなれば、多くの選手たちが切り捨てられる状況にもつながりかねないと思うからだ。
 パラリンピックの変化を望む声の多くは、これが一般のスポーツ大会と同様に扱われるようになってほしいということではないか。障害者福祉などの観点を離れて、純粋に技と力を競う大会として、つまりはオリンピックと同じような存在にしていきたいということである。その行き着くところが、オリンピックとの垣根をなくすべき、すなわちオリンピックと一体にすべきだという論であろう。
 もしそうなれば、パラリンピックの競技はどうなっていくか。障害の程度や内容に応じて多数のクラス分けが行われているパラリンピックについては「メダルの価値を高めなければならない」の声がある。競技性を高め、クラスをなるべく少なくしてそれぞれの金メダルの価値を高めようというのだ。オリンピックなどの一般大会のような形に、あるいはオリ・パラ統合ということにでもなれば、その流れはますます加速していくだろう。結果、多くのクラスが統合されたり廃止されたりして、パラリンピックでの活躍にすべてをそそいできた選手たちが見捨てられ、切り捨てられることになるのではないか。
 外見からして障害の程度が同じように見えても、実際には身体機能、運動能力に大きな差がある例は少なくない。クラスがひとつ違えばまったく勝負にならない場合が多い。なのにクラスが統合されてしまえば、そこに該当する選手はパラリンピックをあきらめなければならなくなる。出場したとしても上位争いには加われなくなる。できる限り多くのパラアスリートに活躍の場を提供するためには、細かいクラス分けが必須なのだ。基本的な身体機能に差がない中で競う一般のスポーツ大会とは、そもそも土台が違うのである。パラリンピックの今後を論じるためには、何よりもまずその点を深く深く考えねばならない。
 オリンピックのようにしたいとなれば、注目度や人気が重視されるようにもなるだろう。そうなると、地味で目立たない競技、じっくり観戦しなければその面白みが見えてこない競技が隅に追いやられ、場合によっては人気の出そうな競技と差し替えられて淘汰される可能性があるのは、それこそオリンピックでのいくつかの例が示す通りだ。パラリンピックの競技には、派手さに乏しく、一見しただけではその魅力、面白さが伝わってこないものも少なくない。パラの「オリ化」が進んだら、それらはどうなるのか。そこにも懸念が残る。
 健常の選手にも負けないほどのパフォーマンスが展開される競技もあれば、重い障害の中でできる限りの運動能力を発揮し、少しずつ競技力を高めていく種目もある。派手でダイナミックな動きに目を奪われるものもあれば、静かで目立たない中に真髄が垣間見えるものもある。それが障害者スポーツであり、その多彩、多様なものをすべて含んでこそのパラリンピックなのだ。一方に傾いてしまえば、そこにゆがみが出るのは避けられない。
 パラリンピックはオリンピックと違うものだと思う。パラリンピックをやみくもにオリンピックに近づけることは無用だと思う。いつも言うように、それぞれに存在意義があり、それぞれに魅力や面白みがあるのだ。そこに思いを致さずして、パラのオリ化のような建前論を主張すべきではない。
 ただ、オリンピックに比べれば、パラリンピックの本質、内容はほとんど知られていないと言わねばならない。そこでメディアの働きが何より重要になる。それぞれの競技がどういうものかを知り、そのうえで目をこらして見つめなければパラ競技の魅力は見えてこない。そのためには、メディアが障害者スポーツの実際の姿を、建前や表面だけではない内側の真実を詳細に、積極的に伝えていくことが欠かせないのである。
 もう一点、国や自治体など行政が果たしていかねばならない役割にも触れておこう。障害者スポーツへの支援が必要なのはもちろんだ。ただ、一部のトップ選手を支援して、それでパラリンピックのメダルが増えたとしても、障害者スポーツ全体の発展には直結しないのではないか。
 障害者アスリート、またこれから競技の道を目指そうとする選手たちにとっての最大の壁は、競技をする場、練習を積む場所がきわめて限られていることである。障害があっても気軽にスポーツに親しめる場、日々練習ができる場をできるだけ増やすのが行政の責務だ。それは障害者の暮らしやすさ、社会進出にもそのままつながっていく。大規模なトレーニングセンターであれ、地域の体育館であれ、誰でも日常的に使えるスポーツ施設は、障害者選手にこそ必要なのだと声を大にして言っておきたい。
 パラリンピックの将来はどうなっていくのか。また、どうしていけばいいのか。そのことは、いまこそもっと論じられ、考えられるべきだ。建前論はいらない。感情論も必要ない。障害者アスリートのために、さらに障害のあるすべての人々のために、またスポーツ全体のために、どういう大会にしていくべきかを正面から真っすぐに考えていけば、一定の結論を出すのはさほど難しくないように思う。

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