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vol.761-1(2018年8月23日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−89
 競技団体は何のためにあるのか

   第18回を迎えたアジア大会、ジャカルタ・パレンバン大会が華々しく開幕し、16日間にわたる熱戦が続いている。伝統文化を散りばめた開会式も悪くはなかった。インドネシアでは二度目の開催。オリンピック開催をも視野に入れているとあって、国を挙げての力の入れようが伝わってくるようだ。ただ、そうした光景を見るにつけ、こう思わないではいられない。アジア大会のありようはこれでいいのだろうか。競技・種目はどうか。方向性はいまのままでいいか。そして、それらについてもっともっと論議がなされるべきではないのか。
 この大会がアジアのスポーツ界の中核であり、発展の原動力となっているのは言うまでもない。全体を見渡せばいまだ発展途上にある国が少なくないアジアだが、オリンピックにはなかなか手が届きにくいところも、これを最大目標として選手を送り込んでくる。その意気込み、そのエネルギーがアジアのスポーツを少しずつ前進させてきたのだ。カバディやセパタクローのような、一定地域で盛んな競技を早くから取り入れてきたのも、アジアの独自性を発揮するうえで大いに意義深いと言えるだろう。
 紆余曲折はありながらも、参加国数、競技数ともに上昇の一途をたどり、今大会は45カ国・地域の参加で41競技・465種目が行われるまでに至った。1万人を超える参加選手数はオリンピックにも並んでいる。アジア全体の潜在力を考えれば、4年に一度の祭典にはまだまだ発展の余地がありそうだ。
 だが、隆盛の一方には課題や疑問も少なくない。まず第一に考えるべきは、一番の基本、すなわち「アジアのオリンピック」という方向性のままでいいのか、ということだろう。
 先に触れたように、オリンピックには数多くの選手を派遣できない国、派遣しても好成績は望めない国にとって、アジア大会出場は最も大きな目標であり、何よりのモチベーションとなっている。彼らにとって、その存在感は五輪大会に匹敵するほどに違いない。まさしくこれは「アジアのオリンピック」としての役割を果たしているのである。
 が、だからといって、すべての面でオリンピックの後を追いかけるべきではなかろう。何から何までオリンピックをコピーする必要などない。それでは、オリンピックの負の部分までも受け継ぐことになるからだ。
 すべての面において巨大化が進み、それに伴ってビジネス最優先の傾向がますます強まっているオリンピック。カネがかかりすぎる大会を嫌って、多くの有力都市が五輪開催から遠ざかっているのは周知の通りだ。この危機に、IOCもいろいろと対応しようとはしているが、マイナスの流れを押しとどめるには至っていない。いま、アジア大会もまた、同じような道をたどろうとしているのではないか。
 「アジアのオリンピック」として、それなりに規模を拡げていくのは不可欠に違いない。だが、やみくもな巨大化、不必要な豪華さや過剰な演出といったオリンピックの悪弊まで真似してはならない。それらは膨れ上がる経費、行き過ぎた商業化につながり、大会そのもののゆがみやひずみを増していくからだ。それでは、昨今のオリンピックと同様に、限られた国、限られた大都市ばかりが開くことになり、アジア大会の存在意義をそこなう状況にもなっていく。
 オリンピックでもまま見られるように、大会開催の名のもとにインフラ整備や都市再開発を大々的に行って経済発展の契機とし、国際的な注目を集めて国力を高めようとする国は少なくない。ただ、それが政権基盤の強化に利用されるのでは、国のため、国民のためとはならないし、むやみに規模拡大や豪華さを追い求めれば、それが経済破綻を招く場合もある。環境破壊につながることもありそうだ。それらはすべて、近年のオリンピックが教訓として残していることである。オリンピックのような、選手たちのあこがれの存在としての役割を果たしつつ、一方ではオリンピックとははっきり一線を画しておく――いま、アジア大会にはそんな方向が求められているのではないか。
 オリンピックもそうだが、アジア大会にもいろいろな形があっていい。あくまでも華やかなお祭りを目指してもいいとは思う。この後に続く2022年の中国・杭州、26年の愛知・名古屋は、オリンピック並みに豪華で巨大な大会になるだろう。ただ、その一方には、身の丈にあった質素な大会、虚飾を排してスポーツの祭典に徹する大会もあってほしい。そうなれば、より多くの地域、多くの国で大会が開ける。アジアのスポーツ全体の発展にもつながる。「アジアのオリンピックとしての意味も持つが、一方の側面ではオリンピックとは一線を画した独自の大会」を考えるべき時期が来ているのではないか。
 競技・種目についてもいささかの疑問がある。アジア独自の競技や、オリンピックには入っていない競技を採用するのはいいが、このところ、いささか無秩序とも思える競技・種目増が目立っているように思う。今回も、クラッシュ、サンボ、柔術、プンチャックシラットなどの地域スポーツ、ジェットスキー、パラグライダーなどの非五輪種目などが新たに加わったが、その普及の度合い、国際競技としての認知度などからして、ちょっと唐突な採用という観も拭えない。地元競技を開催国が行うのにも意味はあるが、本来は、セパタクローやカバディのように、ある程度普及しているアジア発祥のスポーツを地道に育て、国際競技へと発展させていこうとする姿勢が望ましいのではないか。また、囲碁やチェス、今回採用のブリッジなどをマインドスポーツと称して正式種目にするのにも強い違和感がある。それらはまだスポーツとして広く認められているわけではない。そんなところで、アジア大会の競技のあり方に疑問を持つスポーツ関係者はけっして少なくないはずだ。
 何より問題なのは、これらの疑問、課題について十分な論議がなされていないように見えるところだ。もちろんOCAを中心に検討を重ねているのだろうが、少なくとも、それは多くのスポーツ関係者、また大会を支える力となっている一般スポーツファンには伝わってきてはいない。広範かつ熱心な論議があり、それが広く伝わってこそ、国際的なコンセンサスが成り立つのである。OCAの態勢、運営も含め、アジア大会の基本的なありよう、将来像について、いまこそ活発な論議を巻き起こしたい。アジアで最もスポーツが盛んであり、幅広いスポーツ文化も育ちつつある日本が、その先頭に立つべきだとも言い添えておこう。

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