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vol.779-1(2019年8月28日発行)
岡 邦行 /ルポライター

原発禍!「フクシマ」ルポ105

 9月を迎えようとしていても猛暑日は続く。豪雨災害も懸念されるし、台風もやってくる。1年後の真夏に開催される東京オリ・パラ。2020TOKYOは大丈夫か。自然の脅威は避けられない。そう心配するのは私だけではないだろう―。

 8月中旬。東北新幹線のJR福島駅改札口で待ち合わせた山崎健一さんに会った。今年師走に74歳を迎える山崎さんは、私の母校・福島県立原町高校の先輩。大学卒業後は出身地の南相馬市に帰郷し、県立高校教員となり、3・11の年に退職している。
 「新任校の浪江高校津島校を振り出しに、小高商業高校・原町高校・相馬高校・双葉高校・富岡高校に赴任し、43年間教鞭を執らせていただきましたが、やはり退職する年度の春に原発事故に遭ったことは悔しいですよ。赴任した津島校・双葉高・富岡高の3校は原発事故の影響で廃校というか、休校になってしまった。小高商業は小高工業と統合され、小高産業技術高校になった。私だけでなく、多くの卒業生の心中は複雑、悔しいでしょうね」
 しんみりした口調で語る山崎さん。3・11後は家族とともに故郷・南相馬を離れ、5日間ほど新潟県長岡市に避難。その後は横浜市の次男宅に逃れ、3月下旬から2014年11月中旬まで3年8ヵ月間も川崎市の借上げマンションで避難生活を送った。現在は妻ととともに福島市に住んでいる。
 そのような山崎さんは、避難生活を送りながらも積極的に新聞に投稿。これまで地元紙の福島民報と福島民友は当然として、神奈川新聞・東京新聞・毎日新聞・朝日新聞に50回を超える記事が掲載されている。
 それらの記事などをまとめ、独自に発行した『福島県外の人々へ伝えるために〈大震災と原発事故被災の報告メモ〉』『福島県外の人々へ伝えるために〈福島県浜通りを訪ねる旅ガイド〉』のタイトルが記された冊子、さらに多くの資料類を手に山崎さんは言った。
 「1968年、昭和43年春に浪江高津島校に赴任した6月でしたね。高校社会科研究会の研修会で福島第1原発の建設現場を見学している。高台から見学したんですが、『何故にあんなに海岸段丘を削って原子炉を設置するのか?』『たとえ冷却水を取り込むといえど、津波がきたら大変なことにならないか?』と素朴な疑問を抱いたんですね。以来、私は仲間の教員たちと原発に不安を持ち、『原発反対!』を訴えていたんですがね」
 そして、山崎さんはこうも語る。
 「43年間の教員生活でクラス担任は10回、直接授業を担当した教え子は約1万人ですね。3・11の原発事故後、教え子で親と同居して地元に残った者ほど、津波や原発事故に翻弄され、人生が一変する過酷な苦労を背負っている。その人たちの声を発信する。それが社会科の教員だった私の責務だと思いますね」
 山崎さんに話を聞いた場所は、JR福島駅から車で10分ほどで行ける喫茶店「椏久里珈琲」だった。
 「この椏久里珈琲は、20年間も飯舘村で営業していた人気の喫茶店だったんですが、放射線量が高くて全村が避難区域指定となった。そのため経営するIさん夫妻が福島に避難し、ここで営業するようになったんです。私が住むマンションから近いため、よくコーヒーを飲みにきますね。このアイスコーヒー、美味いでしょう?」
 そう説明する山崎さんを前に、私は頷いた。
                       (この項続く)

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