9月に入り、やや涼しくなってきた。だが、油断はできない。9月は台風シーズンなのだ。
60年前の1959年9月26日を忘れてはならない。この日、東海地方を襲った伊勢湾台風(台風15号)は、実に5000余人の命を奪ったのだ。50年後の10年前の2009年、私は『伊勢湾台風 水害前線の村』(ゆいぽおと刊)を出版した。
―地球温暖化が叫ばれるなか、多くの人に水害の恐ろしさを知ってほしい。伊勢湾台風を超える「スパー伊勢湾台風」がやってきてもおかしくないのです・・・。
そうあとがきに書いた1年7ヵ月後の3月11日。スパー伊勢湾台風どころか、1万8000人を超える犠牲者をだす東北大震災に見舞われるだけでなく、人災である福島第1原発事故も招いた。3・11後も毎年のように日本列島を台風や地震などの自然災害が襲い、昨年7月には西日本豪雨災害で280人を超える犠牲者をだしている。
前号で書いたように8月中旬、私は母校・福島県立原町高校の先輩で、南相馬市出身の山崎健一さんに福島市で会った。
「知ってるとは思うけど、東北大震災で福島県の直接死亡者は1600人ほど。それに加えて震災関連死は約2270人ですね。そのうち故郷・南相馬の直接死は525人で、関連死は513人。この数字は今年2月時点のものですが、震災関連死は認定が難しいため、実数はもっと多いと思う」
元高校社会科教員の山崎さんは、独自に発行した『福島県外の人々へ伝えるために〈大震災と原発事故被災の報告メモ〉』『福島県外の人々へ伝えるために〈福島県浜通りを訪ねる旅ガイド〉』のタイトルが記された冊子や多くの資料類を手に語った。私を前に続けた。
「原発事故のため、その直後に自死した県民も多いです。2週間後の3月24日には、須賀川市の64歳のキャベツ農家の男性は『福島の野菜はもうだめだ』と言って死を選んだ。4月には飯舘村の102歳のお爺ちゃんは『生きすぎた。俺はここから出たくない』と言って自死・・・。6月には相馬市の酪農家の54歳の男性は『原発さえなければ』と、堆肥舎の壁に書き残して死んでいます。また、南相馬市の93歳のお婆ちゃんは、家族と避難せずに独り暮らしが寂しかったんでしょうね。『さようなら 私はお墓に避難します』と、遺書4通を遺して自死した。7月には川俣町の58歳の女性は、一時帰宅中に『避難したくない 元の暮らしをしたい』と言って、近くの空き地で焼身自殺をしています・・・」
山崎さんは私を前に強い眼で言った。
「これでも安倍政権は原発を推進するのでしょうか。原発事故の罪深さを思い知るべきです。勝手に『復興』という言葉を口にしては、死者に対して失礼ですよね」
約2時間、山崎さんは私に「フクシマの現実」を伝えてくれた。福島市の除染は完了したというが、山崎さんは頭を振って言った。
「たしかに除染はしましたけど、市内の所どころにブルーシートに包まれた汚染土が置いてある。除染したと言ってもね、そんなもんですよ」
JR福島駅西口の公園には放射線量計が設置されている。福島を訪ねるたびに私はチェックしているが、ここ2年間はほぼ同じ数値である。今回は毎時0・129マイクロシーベルトで、基準値(毎時0・23マイクロシーベルト)を下回っていた。だが、原発事故前を大幅に上回っていることは事実だ。
(この項続く)
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