オリンピックのありようをさまざまな側面から考えてきた、この「五輪の風景」は、100回目となる今回でページを閉じようと思う。連載の最後にあたって考えるのは、やはり「オリンピックはこのままでいいのか」「本来の姿に少しでも立ち戻れないだろうか」ということだ。
この30年あまりで、オリンピックはかつてない発展を遂げ、空前の繁栄を迎えている。すべては、いわゆる商業主義の成果と言っていい。とかく批判の対象になりがちな商業主義だが、オリンピックを財政危機による大ピンチの淵からよみがえらせ、繁栄の時代をもたらしたことは、近代スポーツ史における最大のポイントとして記憶されることになるだろう。
が、それでもなお、商業主義の全面導入に端を発した流れ、それが必然的にもたらした顕著なゆがみ、ひずみに目をつぶるわけにはいかない。ビジネス優先でものごとが決まり、進んでいく形は常に「より巨大で豪華な大会」を求め、そのエスカレートを招いた。そこに一部開催国による国威発揚の狙いが輪をかけることともなった。結果、開催経費は急速に膨らみ、それによって世界有数の大都市でなければ大会を開けないような状況が生まれ、さらに、そうした都市からも市民の反対によってオリンピック招致の意向を取り下げるところが相次ぐまでになった。開催地確保に四苦八苦の状態が続く冬季大会だけでなく、夏季大会でも同様の状況が現れている。つまり、世界各地であれだけ招致熱が高かったオリンピックが「歓迎されざる」存在になりつつあるのだ。空前の繁栄の陰には、これもまたかつてない危機が隠れていたのである。
巨大で豪華な大会の実現を先頭に立って推進してきたIOCは、思わぬ事態にあわてふためき、「アジェンダ2020」でいままでとは180度違う方針を打ち出したが、そんな程度で状況が変わるはずもない。すべての面にビジネスが深くかかわっている以上、そう簡単にいままでとは違う方向へ、すなわち、常により以上の成長や発展を望むビジネスサイドの意向に反した方向へと舵を切ることなどできるわけもないのである。これを少しでも是正するには、IOCが強力なリーダーシップを発揮するか、開催都市が違う方向性を明確な意図のもとに強く打ち出してみせるか――のどちらかしかないのだが、いまのところそれは到底望めそうもない。
かくて、豪華に飾り立てた巨船はいままで通り大海原を突っ走っていくことになるのだが、その先には巨大な氷山が立ちはだかっているかもしれないのである。いや、これまでと同じ航路を選ぶ限り、その可能性は高いと言えるのではないか。1976年のモントリオール大会で破綻の危機に陥ったオリンピックは、民間資金導入で大成功した80年のロサンゼルス大会でみごとによみがえり、商業主義の徹底によって繁栄への扉を開いた。が、IOCをはじめとする関係組織は成功に酔い、徐々に膨らんでいったゆがみには目もくれなかった。大成功を生み出したビジネス路線が際限なくエスカレートしていって、今度はまったく別の危機へと近づきつつあるというのに、繁栄を謳歌するばかりで、オリンピックの将来については、しっかりとした理念にもとづいた新たな方向性を何ひとつ打ち出せなかったというわけだ。
オリンピックについては、現状を肯定する人々も少なくない。「これだけ発展、繁栄しているのだから、このままでいい」という考え方だ。一方、「オリンピックなどやめてしまえ」という全面否定派もいる。また、「オリンピックは平和の祭典であるべきだ」との建前論も根強い。で、どう判断すべきかというと、どれも違う。どれもずれていると思う。
まず、これまで指摘してきたことから、現状をそのまま肯定できる状況でないのははっきりしている。世界中から支持され、注目されてきた歴史を考えれば、「やめてしまう」べきでないのも疑いない。また、現在のオリンピックのありようを考えると、建前としての「平和の祭典」論にさほどの意味がないのもわかるはずだ。
オリンピックはスポーツの祭典なのである。もちろん、スポーツ大会とはいえ、これほど世界的に注目される存在であれば、社会全体の潮流の影響を受けないわけにはいかないが、それでも、政治にも思想にも経済にも直接結びつかない「スポーツ」だからこそ、世界中から民族も人種も政治形態も文化も超えて多くの若者が集まり、そこに他にはない価値が生まれたのだ。イデオロギーにも文化対立にも無縁のスポーツだからこそ、そのあとに平和も友好親善もついてくるのではないか。だからこそ、オリンピックは世界の貴重な共通財産として、何より大事にされ、多くの人々の心を惹きつけてきたのではないか。
そこに政治的な思惑が入り込み、利益を貪欲に追うビジネスが深くかかわってくれば、オリンピックは変質せざるを得ない。最も大事なもの、主役であるべきスポーツがしだいに中心から隅の方へと追いやられるようになったのだ。もちろん、スポーツの祭典としての形はそのままだが、目をこらして見つめれば、どんどんスポーツそのものの、競技そのものの影が薄くなってきているのがわかる。いまやスポーツは、ビジネスのための巨大イベントのひとつのコンテンツに過ぎない。
それでは、オリンピック本来の存在意義は薄れるばかりだ。世界の人々を惹きつけてきた魅力も消えていきかねない。そのこともまた、オリンピックを衰退の危機へと押しやる要因となるだろう。
オリンピックにはなんとか本来の姿を取り戻してほしい。すなわち、競技と選手と、それらを愛する観客のためにある「スポーツの祭典」としての姿に立ち戻ってもらいたい。といって、先に述べたように、オリンピックが自ら変わっていく望みはほとんどないと言わねばならない。IOCや開催都市にもまったく期待できない。
ただ、世の中には真のスポーツファンがまだたくさんいるはずだ。そうしたファンにはいまこそ「オリンピックは本来の姿に戻れ」と声を上げてほしい。「政治にもビジネスにも思想にも関係のない、スポーツの祭典に立ち戻ろう」と叫んでほしい。そんな声が世界中で高まれば、ゆがみ切ったオリンピックも少しずつ変わり始めるかもしれないと、ふと思ったりもするのである。(終わり)
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