「批評性」「論評性」「文化性」の視点からスポーツの核心に迫る―スポーツ・コラム

尾崎和仁

VOL.784-1(11.30)
 「三菱ダイヤモンドサッカー」の寺尾皖次さんを偲ぶ
 


 サッカー仲間のSNSで、元テレビ東京ディレクターの寺尾皖次さんが7月に亡くなられていたことを知った。寺尾さんは、今や伝説となったサッカー番組「三菱ダイヤモンドサッカー」の担当ディレクターを務めていた。
 海外の名勝負を紹介する「三菱ダイヤモンドサッカー」は、1968年4月から1988年3月まで約20年間(途中1年の休止があった)続いた、当時としては、世界のサッカーにふれることができた唯一のテレビ放送だった。今では考えられないが、サッカーの試合の前半、後半を2週に分けて放送していた。1970年の夏からは、1年間かけて、サッカーW杯メキシコ大会のほぼ全試合を放送し、ペレやベッケンバウアーの活躍を日本のサッカーファンに紹介してくれた。

 今、50代以上のぼくらの世代にとっては、「三菱ダイヤモンドサッカー」は、世界のサッカーに目を開かせてくれた番組だった。実況の金子勝彦アナウンサーの名調子もよかったが、解説の岡野俊一郎さんがサッカーの解説にとどまらず、各国の文化・ライフスタイルなどにまで言及してくれたことで、外国文化への興味もわいた。「三菱ダイヤモンドサッカー」がなければ、ぼくがサッカーの魅力を知ることもなく、何度もW杯を観るために海外に行くことはなかっただろう。その番組のディレクターが寺尾さんだった。

 寺尾さんと初めてお会いしたのは、「牛木素吉郎とビバ!サッカー研究会」の2006年12月の定例会のゲスト講師として、「サッカーのテレビ中継と東京12チャンネル」というテーマで話していただいたときだ。「三菱ダイヤモンドサッカー」の収録の前には、実況の金子勝彦さんと解説の岡野俊一郎さんのために、事前に3度、4度と試合のビデオを繰り返し見て、選手の名前を確認し、試合の流れ、ポイントをまとめた資料を準備していたそうだ。また、1974年7月、W杯西ドイツ大会の決勝戦を初めて生中継したときには、西ドイツが優勝を決め、W杯を授与された後も、興奮冷めやらぬ金子アナウンサーがいつまでもしゃべり続けるので、衛星中継の費用が心配でハラハラしたという話も。そのような話を聞いて、金子さんと岡野さんの名コンビを支えていたのが寺尾さんだったということを知った。

 その後も、何度かビバ!サッカー研究会に来ていただき、メキシコ五輪で日本代表が躍動している映像や「三菱ダイヤモンドサッカー」の第1回の放送のイングランドリーグ、トットナム・ホットスパー対マンチェスター・ユナイテッドの元映像などを見せてもらった。定年退職した際にこっそり持ち帰って大事にしまっているという貴重なビデオだった。サッカーファンとしては、なんともぜいたくな経験だった。

 またお会いして話を聞きたいと思いつつも、ここ10年ほどは、年賀状の交換だけのおつき合いになってしまっていた。そして、今年の寺尾さんの年賀状には、「永年にわたり皆様と楽しく賀状の交換をさせていただきましたが、本年をもちまして新年のご挨拶を失礼させていただきます」と書かれていた。そんなお歳なのかと、あまり気にしていなかったが、今思えば、すでに体に異変があったのかもしれない。
 遅ればせながら、寺尾さんのご冥福を祈ります。

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