「批評性」「論評性」「文化性」の視点からスポーツの核心に迫る―スポーツ・コラム
岡 邦行/ルポライター
VOL.782-1(10.15)
原発禍!「フクシマ」ルポ-108
8月末、「日本パラリンピックの父」と称される医師・中村裕の57年の生涯を辿った、『中村裕 東京パラリンピックをつくった男』(ゆいぽおと)を出版することができた。発売から1ヵ月半で毎日・読売・日経の一般紙を始め、報知・日刊ゲンダイ・中央公論などの書評欄でも取り上げられた。正直、書き手としては、ひと言で「嬉しい!」。
「まずは地元の図書館に行ってリクエストしてください。多くの人に読んでいただきたい」
それが私と版元の偽らざる願いだ。
この2年間、私は多くの障がい者スポーツ関係者に会った。中村裕が創設した「太陽の家」がある大分県別府市には10回ほど出向く一方、宮崎・福岡・山口・高知・大阪・神奈川・東京・茨城・栃木・宮城など各地を訪ねた。
もちろん、福島県の障がい者スポーツも取材した。
「福島県には立派な身障者専用のスポーツセンターはないです。でも、20年以上前から県内を6地区に分け、各地区の日本障がい者スポーツ協会が認定する障がい者スポーツ指導委員たちは、公共施設の体育館やグラウンドなどを利用し、障がい者スポーツを奨励しています。とくに3・11後は、地域社会の活性化に役立っていると聞いていますね」
福島県庁内にある福島県障がい者スポーツ協会。職員のMさんを訪ねると、そういって続けた。
「1964年の東京パラリンピックで日本は唯一、卓球男子ダブルスで金メダルを獲っています。あまり知られていないと思いですが、その2人の選手、猪狩靖典さんと渡部藤男さんは福島の人です。そういったこともあり、福島県は50年ほど前から地道な活動で障がい者スポーツを推進しています」
19歳のときに交通事故で車いす生活を余儀なくされたMさん。だが、少女時代から夢中になっていたバスケットボールが忘れることはできず、22歳のときに郡山市の車いすバスケットボールチーム「チーム・アース」に所属。日本代表選手として96年のアトランタ・パラリンピックから4大会連続出場を果たし、2回目のシドニー大会では銅メダルを獲得している。Mさんは、笑みを見せつつ語った。
「チーム・アース出身の後輩には男子の日本代表主将の豊島英(とよしま あきら)君がいます。いわき市出身の彼は12年ロンドンと16年リオのパラリンピックに出場していますし、きっと来年の東京大会にも出場できるはず。活躍が楽しみですね」
その豊島英さんに私が会ったのは、3・11から1年後だった。当時の彼は宮城県警に勤務しつつ車いすバスケットボールを続け、ロンドンを目指していた。だが、3・11のときは東京電力福島第1原発事務本館1階の総務部に勤務する職員であり、まさに現場で原発事故に遭い、その計り知れない恐怖を全身で感じたのだ。当時を彼は、詳細に語ってくれた・・・。
原発事故に遭っても積極的に障がい者スポーツを推進する福島県―。
特筆すべきは健常者参加のマラソン大会に車いすマラソンを設けているだけでなく、なんと生活用車いすでも参加できる部門もあるのだ。
「毎年10月開催の『会津若松市鶴ヶ城ハーフマラソン大会』と、4月の『郡山シティ―マラソン大会』は、生活用車いすでも参加できます。付添いのサポート役は必要ですが、一般の障がい者も公道の凸凹を身体で感じながら走りたいですからね」
そして、Mさんはこう語る。
「施設などをバリアフリー化するには、お金がかかるといわれます。でも、たとえば出入口がスロープでなく、階段であっても表に電話番号を表示すればいいんです。車いすで行っても携帯で連絡すれば、すぐに職員たちが助けてくれる。居酒屋やファミレスなども同じですよね」
来年の東京オリ・パラを契機に日本は、一気に超高齢化社会を迎える。障がい者と健常者が共生できる社会、「ノーマライゼーション」の理念が広がらなければならない。それがオリ・パラのレガシーだ!
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