「批評性」「論評性」「文化性」の視点からスポーツの核心に迫る―スポーツ・コラム

佐藤 次郎/スポーツライター

VOL.753-1(6.15)
 「五輪の風景」-84
 eスポーツ、もっと論議を


 eスポーツについては、もっともっと論議を重ねなければいけない。以前からそう思っているのだが、相変わらず活発な議論が見られないのはどうしたことか。もうアジア大会の正式種目となることが決まり、オリンピックでの実施も検討されているのだ。それが果たして妥当かどうかには賛否それぞれがあるに違いない。なのに、このまま事態が進んでいくことには強い違和感がある。
 ラテン語から始まった「スポーツ」という言葉の語源に、気晴らしや楽しみ、遊びといった意味が含まれていたことから、そこにゲームや室内遊戯などが含まれてもおかしくないのだという論がよく語られる。が、近代スポーツが確固たる形を整えた段階で、その定義は異論の差しはさまれる余地なく確立された。すなわち、さまざまな形で体を鍛え抜き、それぞれの競技の理想とする動きを追い求めていくこと、さらに、そうした中で他の競技者たちと技や力を競い合っていく行為ということである。もちろん、多くの選手たちはいちいちそんなことを意識はしないだろうが、あえて突き詰めていけばそうなるはずだ。
 そこでeスポーツ、コンピューターゲームの腕を競う行為が近代スポーツのジャンルに含まれるのが妥当かどうかということになるのだが、これはもう考えるまでもあるまい。バーチャルな映像を指先で操る行為は、鍛え上げた自らの体を自在に動かして勝負や記録を競うというスポーツの真髄とはまったく別物だろう。確かにそれなりの体力や反射神経は必要だろうが、その勝負はすべてバーチャルな電子映像の中のことでしかない。現実の舞台に立って、自らの体ひとつで挑むスポーツの勝負と同列に並べるのにはどうあっても無理がある。
 これは筆者の意見であり、それなりに筋の通った考えでもあると思う。とはいえ、異論もあるだろう。時代の変化に伴って、スポーツの定義を根底から考え直してもいいという意見があっても不思議はない。ならば、これについてもっと議論が沸騰していなければおかしいのではないか。これまでとはまったく違った概念をスポーツに取り入れ、なおかつ国際総合競技大会でも実施しようというなら、その前に徹底的な論議が欠かせなかったのではないか。なのに、さほどの論争もないまま、ものごとが進んでいっているのである。スポーツ界全体の考え、結論がどうなるにせよ、このままなし崩しのような形でeスポーツがスポーツの仲間入りをしてしまうのには承服しかねる。
 受け入れる側、入ろうとする側双方にメリットがあるのはわかる。IOCや2024年パリ大会の側が採用を検討しているのは、若い層を中心にオリンピックへの関心を高めるのにつながり、ひいてはスポンサー獲得などビジネス面でのプラスも計算できるからだと思われる。またeスポーツ側も、社会的に大きな存在となっているスポーツの仲間に入ることによって、さらなる発展、展開が見込めると思っているのだろう。ただ、だからといって、最も本質的なところの論議を抜きにしてものごとを進めていくのは、双方にとってけっしてプラスにはならないのではないか。
 もう一点、疑問に思うのは、なぜeスポーツ側がこれほどスポーツ大会への参入を望むのかということだ。ゲームは世界中に広まっていて、若い層を中心に絶大な支持を受けている。驚くほどの高額賞金を争うeスポーツの大会も頻繁に開かれているという。つまり、それだけの世界を既に確立しているのだ。独自の文化も形づくられてきているに違いない。それなのに、なぜ畑違いの分野への参入を望むのだろうか。この疑問は、やはり長い歴史と独自の文化を擁する囲碁やチェスが、マインドスポーツという形でスポーツ大会に加わってきていることにも共通する。
 ともかくも、スポーツ界全体、またメディアやスポーツファンも含めた形で徹底的に論議を重ねることだ。eスポーツにどう向き合うか。スポーツ大会への参入をどう受け止めるか。それを一から考えてみるべきなのだ。最初に書いたように、そうした論議が繰り返し行われてきたようには思えない。これは、「そういう時代だから」「若者受けするから」「新たなビジネスチャンスがあるから」などという理由で片づけてしまえるような問題ではないのである。


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