荒川静香に救われた1年、と言える。トリノ冬季オリンピック(2月)は、メダル候補を持ちあげ、はやし立てるなかで開幕した。 ところが、騒がれた選手たちは、もろくも崩れ、倒れ、戦う姿勢が見られない、とまで酷評される。 国際舞台で緊張に身体をこわばらせ、雰囲気に溶けこめず、時には悲壮感さえただよわせるシーンはさすがに、影をひそめたが、リラックスと“軽さ”とは異なる。 そのあたりのけじめが、ビッグイベントのたびに薄れていく印象がある。 閉幕直前、黙々と自分のカラに閉じこもり静かな闘志を燃やしていた荒川が、日本選手団たった1つのメダルを金色で染めた。 この“快挙”がなければ、スポーツ界に射ちこまれる非難、批判の矢は、とどまることがなかっただろう。 10ヶ月後、ドーハ(カタール)でのアジア大会は、メダルを“量産”したものの、レベルアップや活況の実感に乏しい。 オリンピックや世界選手権ばかりに目を向けすぎ、アジアで勝てなくなった競技や種目が大会ごとに増えているからではないか。 世界、アジアを問わず各国のスポーツ強化策は、厚い基盤作りが始まって重厚だ。 話はそれるが、剣道でさえ世界の王座を揺さぶられる時代である。 日本では限られた選手の戦果が持てはやされ、それが、さもスポーツ王国を築きあげているかのような錯覚を起こさせる。 競技人口の減少にあおられ、どのスポーツも、トップレベルを保持する見通しは、決して明るくない。 そこへ選手の浮ついた行動が重なっては、いつでも“トリノ状態”となるのは、目に見えている。 実力に物足りなさがあっても、ルックスとスター性を備えていればマスコミは集ってくる、とはある競技団体役員の言葉だ。 とっくに、メディアの、それもテレビの軽さは見透かされている。 困った課題が、年毎に増えるばかりではないか―。 |