チベット問題に端を発した北京五輪聖火採火式とそれに続く各地での聖火リレー妨害は、ハッキリした解決を得られないまま厳重な警戒の中で進められている。本来爽やかなイベントであるべきこの行事が何とも悲しい異様な状況である。長野市で予定されていた北京五輪聖火リレーの出発式会場であった善光寺が間際になって出発地辞退を表明した。“チベット弾圧への憂慮”とのことだが、本音は善光寺境内でゴタゴタが起こり、国の重要な文化財を損傷するようなことになってからでは間に合わない、ということなのだろう。聖火ランナーを護るための青と白のジャージー姿の中国警備隊の助けは借りないとの発言が町村官房長官からあり、あの見苦しい光景は我が国では見ないですむと喜んだが、聖火リレーの実行委員会は中国警備隊を受け入れるとのことだ。 善光寺の決定を云々するつもりはないが、最近のオリンピックはあまりに政治的に左右されたり、商業的すぎてすっきりしないことが多すぎるような気がしてならない。ライブで競技を楽しむことは出来るようになったが、商業化は進みテレビの放映権料も莫大な金額となった。開催地がその都度変わるオリンピックはその国や地域の経済活性化に繋がり、またその地域の珍しいスポーツを取り入れて紹介する機会も得られるが、国ごとのメダル獲得競争がエスカレートしたことなどが、図らずもドーピング問題を抱えてしまう結果となったのではなかろうか。 さて前置きが長くなったが、聖火リレーを妨害する行為は、中国の人権問題に対する抗議の矛先としてはあまりに低次元の行動ではないだろうか。“神聖なる火”を消すことの意味は大きいと考えているのかも知れないが、聖火リレー・ランナーに危害を加える行為は、戦争で無実の老人・女・子供が被害に遭うケースと似ているように思う。チベット問題で中国を擁護する気持ちは毛頭ないが、チベットの独立や自治を認めると国内の数ある他民族が同等の要望に目覚める結果となる。そうして国が分裂状態になることは、実は中国政府が一番恐れているところである。1951年に人民解放軍がチベットに送られ、その後こじれてしまった現在の状態は中国共産党と中国政府の思惑でもあるが、一方弱さの現れのようにも思う。 1979年、ソ連のアフガニスタン侵攻に伴いモスクワ・オリンピックが一部の国の参加ボイコットに発展した。日本もアメリカに追随して参加を取り止めた。4年に一度しか開催されないオリンピックの不参加は、そこに照準を合わせて長期間練習を重ねてきたアスリートたちの貴重な機会を奪う結果となった。今年の大会では一国たりとも不参加にならないよう願うばかりだ。それはアスリートたちの人生をも左右する結果となる危険性を秘めているからなのだ。 |