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vol.403-1(2008年5月26日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター
「戦う」のはやめて、楽しもう

 Jリーグでサポーター同士の衝突が起こるたびに、どうしてそうなるのかと思う。スポーツを楽しむという行為は、そんなことにはつながらないはずではないか。

 スポーツを見るのは、言うまでもなく楽しむためだ。競技そのものの味わい、勝負の興奮、トップアスリートのスーパープレー、好きなチーム、選手への応援。そうしたものを楽しむために、人は競技場へ向かい、テレビの映像に見入るのである。もちろん、思うように楽しめない時もあるだろう。応援するチームや選手があっさり負けてしまえば、暗い気分で家に帰るはめにもなる。が、それもこれもすべてがスポーツの楽しみであり、味わいなのだというのを、熱心なファンたちはよくわかっている。

 ところが、一部にはそれを戦いだと思いたがる人々がいる。応援するチームや選手とともに、一心同体となって戦うのだというのである。なるほど、それもひとつの観戦方法には違いない。だが、それではスポーツは楽しめないのではないか。

 戦いの目的は敵を倒すことだ。すべて敵と味方という色分けになってしまえば、勝ち負けにだけ関心が向くだろうし、相手方を尊重する気などわいてこないだろう。その競技ならではの雰囲気を、勝負とは別に楽しもうとも思わないに違いない。つまり、視野が極端に狭くなるのだ。それではスポーツを見るという素晴らしい楽しみを味わい尽くすことなどできない。

 「一体となって戦う」「ともに戦う」という考え方は、スポーツを見て楽しむためにはふさわしくないと思う。どれほど熱烈に応援していても、見る側と選手・チームとは根本的に立場が違う。「戦う」という意識と、スポーツを楽しむという行為は両立しえないのではないか。

 それに、そうした意識は観客同士の摩擦を招きやすい。敵味方、戦いという意識が強いと、ちょっとしたことをも挑発と感じ、すぐさま反撃しようと思ったりもするだろう。Jリーグでサポーターの衝突が起きるたびに、そのことを感じないではいられない。

 サッカーの場合は、ことさら「戦い」を強調する傾向がある。たとえば、かつて中米でW杯予選の試合をひとつのきっかけとして本物の戦争が起こったという事例がしばしば紹介されるのも、そのひとつの表れだ。スポーツ、競技の枠を超えた厳しい戦いなのだと強調したいということだろう。

 だが、それはちょっと違うと思う。どんな試合だろうと、どんなに熱烈に応援していようと、スポーツは楽しむべきものであって、観客の側が戦争にたとえるなど、考え違いもはなはだしい。そうした意識が、サポーター同士の衝突を生む素地となっているのではないか。

 欧州では、フーリガンの存在に象徴されるように、サッカーの試合での暴力や行き過ぎた騒ぎが多い。日本のサポーターは欧州のスタイルを手本とすることが多かったようだが、それだけは真似してもらいたくない。観客席にいる者にとって、スポーツはあくまで楽しむものであって、戦いの対象などではないのだ。

 先だってはJリーグの浦和−G大阪戦で、双方のサポーターが衝突して多数の警備陣が出動するという騒ぎが起きた。こうした出来事が繰り返し起これば、警備を厳重にせざるを得ず、スタジアム全体の雰囲気がどんどん悪くなっていく。現に、また騒動が起きるようなら、無観客試合などの厳罰で臨むという考えも出てきているようだ。そうした傾向が進めば、一般のファンが気軽に観戦できないような状況にもなるだろう。どんなに熱心なサポーターであれ、観客席に「戦う意識」など持ち込むべきではないのである。

 存分に楽しんで、試合が終われば双方のファンが肩を組んで帰っていく。そんなシーンを諸外国の過激サポーターたちに見せられるようにしたいものだ。

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