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vol.404-3(2008年6月6日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター
「大都市でなければ」でいいのか

 オリンピックの開催地選びが行われるたびに、このままでいいのだろうかと思わずにはいられない。大国の大都市でなければ開催なぞできないと言わんばかりの傾向は、本来の五輪精神にそぐわないのではないか。

 2016年夏季五輪招致では7都市が立候補を申請したが、申請ファイルによるIOCの一次選考では3都市があっさりと落ちた。バクー(アゼルバイジャン)プラハ(チェコ)ドーハ(カタール)である。オイルマネーを持つドーハはともかく、他の2都市はインフラや施設整備、財政力などの面で評価されれば、到底太刀打ちはできまい。相手は東京、シカゴ、マドリードといった世界有数の大都市なのだ。

 IOCが夏季五輪開催に求める水準からして、それらは受け入れがたいレベルということになるのだろう。ただ、今回の評価の内容はともかく、このような形で候補都市を絞っていく方式を続けるのなら、それほど大きくない国の都市はいつになってもオリンピックを開けないことになりはしないか。開催能力を数字で測られたら、すべてを備えているスーパーシティにかなうわけがない。

 2012年夏季五輪招致でも、ライプチヒ、イスタンブール、ハバナ、リオデジャネイロが一次で落ちている。これらも世界的に有名な都市ではあるが、競争相手はロンドンやパリやニューヨークだった。都市の総合力で比較されたら勝負にならない。最近は冬季五輪でも大きな都市が選ばれる傾向があるようだ。

 近年、オリンピックはすべての面で巨大化し、豪華さも飛躍的に増した。さらに警備の必要性が急速にふくれあがった。オリンピックビジネスの規模もふくらみ続けている。そこで、IOCがさまざまな面で開催都市に求めるレベルも高くなる一方だ。となれば、開催地はそうした高水準の要求を受け入れるだけの規模を持つ大国の大都市とならざるを得ない。

 が、それでいいのだろうか。オリンピックは平和と友好の祭典でもあり、それを考えたら、できる限りいろいろな国、いろいろな街で開いた方がいいのは自明の理だ。多彩な文化、多様な環境のもとで開催を重ねれば、それだけ相互理解が進み、平和と友好の実が挙がるのは言うまでもない。それこそが五輪精神ではないか。

 IOCも各国NOCも、どうしたら大国一辺倒にならずに幅広く開催できるのか、もっと真剣に考えるべきなのだ。ビジネスの面を考えれば、中規模の都市では難しい状況も出てくるだろうが、経済的な成功ばかりにこだわっていては、一般の商業イベントと何も変わらないことになる。オリンピックならではの意義を生かすためには、「大国の大都市」以外での開催が必要なのである。

 もちろん、そうした考え方がすぐに実現に向かうことはないだろう。現在の五輪は巨大な多面体のようなもので、いままでと違う方向へ舵を切ろうにも、すぐには身動きできない状況なのだ。しかし、大国の大都市で代わりばえのしない巨大ショー路線が続いていけば、いずれファンは離れていくと思う。オリンピックの最大の魅力は昔ながらの五輪精神にあり、その唯一無二の雰囲気が人々をかくも強くひきつけてきたのだ。そこからあまりにかけ離れてしまえば、魅力もしだいに色あせていくだろう。

 現実路線にとどまっているだけでなく、五輪精神の理想を少しでも生かす方策を模索していくのは、すべての五輪関係者、なかでもIOC幹部たちの欠かすべからざる責務だ。大都市路線の見直しは、オリンピックのさまざまなゆがみをただすことにもつながる。世界の財産である五輪には、いつまでも本来の魅力を保っていてほしい。経済的な繁栄ばかりを追いかけて、「理想」から目をそむけていてはならない。

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