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vol.413-3-2(2008年8月28日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター
いまこそ流れを変えるときだ

 北京五輪は、ある意味で極限の大会だったといえる。国威発揚の意識の強さ、巨大さと豪華さのとめどない競争、ビジネスによる支配、過剰なショーアップ。近年のオリンピックをめぐる、そうした流れがほぼ極限まで行き着いた大会ということだ。

 確かに施設はどれも素晴らしかった。運営の面でもこれという問題はなく、とりあえずは無事に17日間が過ぎた。IOCも高い評価を下しているようだ。

 だが、だから大成功なのかといえば、それには首をかしげざるを得ない。なんとも華やかで、競技そのものは大いに盛り上がった17日間ではあったが、一方では常に疑問や違和感がついて回っていた。心の底から楽しめない空気が、そこには流れていた。

 なんについても国家というものが前面に押し出されていたのが、その第一の原因だろう。すべてが国家の威信を誇示するために整えられているように見えた。たとえば、国を挙げて強化してきた選手たちが、次々と金メダルを獲得していくのには目を見張らされたが、それはどこか不自然な印象も残したのではないか。スポーツもオリンピックも、本来は人間が主役なのだから、国威発揚の意識ばかりを見せつけられるのには、違和感をおぼえずにはいられないのだ。

 これほど巨大で豪華にする必要があるのかという疑問も、やはり感じないではいられなかった。その象徴が開会式と閉会式だろう。なるほど、それはどちらも度肝を抜かれるような場面の連続だった。こうして開催国の文化を世界に紹介するのも大事かもしれない。しかし、あれほど大がかりに、豪華にする意味があるのだろうか。スポーツの祭典であるオリンピックに、あの豪華ショーはどう結びつくというのか。

 豪華さはそれだけで注目を集める。が、表を美しく飾ろうとすればするほど、裏では無理を重ねなければならないところもあるはずだ。開会式の「口パク」などは、そのひとつの表れだろう。無理を重ねた作為がうかがわれるショーには、いくら華やかであろうと、やはり違和感がついて回るのである。

 贅を尽くした開会式と閉会式はまた、とめどなく肥大し、膨大な費用を呑み込んでいく近年のオリンピックをも象徴している。スポーツ大会のセレモニーに巨費をつぎ込む必要などない。簡素で、いかにもスポーツらしく爽やかな式典さえあればいいはずだ。肥大化抑制をうたいながら、その実はちっとも上がっていない五輪の矛盾を、北京の開閉会式はあらためて感じさせた。

 いずれにしろ、今回がこうした大会だったということは、流れを変えるきっかけともなるだろう。巨大さ、豪華さを競う方向への疑問が、いままで以上に出てくるに違いないからだ。

 もっと「普通の」オリンピックへと戻っていくべき時期が来ている。国威発揚のための大会ではなく、ビジネスがすべてを支配する大会でもなく、規模や豪華さもほどほどで、純粋に世界最高峰の競技を無心に楽しめる大会。本当にスポーツと選手たちが主役となる五輪。政治やビジネスの意図が薄まれば、そこに自然な友好親善も生まれてくる。

オリンピックは、発展し続けようとしてきたために、かえって負の要素もふくらませてきてしまったのだ。行き着くところまで行き着いたと感じさせた北京大会は、少し違う方向へと舵を切るのに絶好のタイミングではないか。

 2012年はロンドン大会で、2016年も東京やシカゴといった世界的大都市が有力候補となっているのだから、それほど大きな変化がすぐに訪れるとは思えない。とはいえ、後に続く者たちの目には、北京の光と影がくっきりと見えているはずだ。オリンピックを発展させていくのだという意識の中身を、ここで少しばかり変えてみたい。たとえわずかでも、流れを修正できるか、どうか。オリンピックの将来は、まさしくそこにかかっているように思われる。

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