北京五輪で誰もが疑問を抱いたのは、野球の日本代表のあっけない敗退に違いない。なんといっても、いまや米メジャーリーグにも迫ろうかという勢いだったはずのニッポン野球である。選りすぐられた選手たちの年俸総額は、マイナーリーガーだけの米国、プロ野球の歴史はずっと浅い韓国、ステートアマのキューバから見れば、夢のまた夢のようなものだろう。なのに、その3チームには、計5回の試合で一度も勝てなかったのだ。 基本的な実力が大きく劣っているとは思えない。一人一人のこれまでのプレーの質と実績を振り返ってみればよくわかる。基礎能力の絶対値の問題ではない。故障者は出たが、全体としてコンディションがそれほど悪かったわけでもないだろう。大会前からメディアが伝えていたところを見る限り、モチベーションもそれなりに高かったようだ。 では、なぜなのかとなると、なかなかすっきりとはしない。星野仙一監督はストライクゾーンのばらつきなどに言及したが、それは相手もまったく同じ条件なのだから言うべきことではない。采配批判も目立っているが、それですべてが決まるわけでもない。根本的な敗因はほかにあるはずだ。 メディアで伝えられた野球人たちの論評の中で、うなずけるキーワードがひとつあった。「対応力」である。 国内では、同じ相手と長いペナントレースを戦う。スコアラーによって分析されたデータも豊富だ。体調管理の態勢もしっかりしている。球場や移動といった環境も総じて悪くない。つまり、力を出しやすいようにきれいに整えられ、しかも慣れ親しんだ中で常にプレーしているのである。 野球があまり盛んでない国で開かれる国際試合となると、そうはいかない。競技環境はふだんと大違いだし、すべてが慣れないことばかりだ。アマ、プロが混在し、審判の技量にもばらつきがある。相手チームのデータもそろってはいない。といって、代表チームともなれば、なんとかそれに対応していけるだけの奥行きと柔軟性を持っているはずなのだが、日本のトップ選手たちはなぜかその「対応力」に著しく欠けていたというわけだ。 そこで次の疑問だ。地力はあるのに、どうして対応力だけが欠けているのか。敗退に対する専門家の論評の中で印象的だったのは、「箱庭」という言葉である。異なる場所、慣れない舞台で戦う場合でも、慣れ親しんだ自分の庭でのプレーや精神状態から抜け出せないままだったという趣旨であろう。 確かに、整った環境で、賢いという意味での「スマートな」野球を磨いているうちに、少々の違いは力づくで乗り越えてしまうたくましさ、強さの方は薄れてしまったという観はある。ふだん、どんな環境でも力を出してアピールしなければならない米国のマイナーリーガーたちが、格の違いを乗り越えて力強い戦いぶりを見せたところからも、そのことがうかがえるようだ。 いずれにしろ、球界には大きな宿題が課せられた。できる限りの具体的な分析が必要だ。ことは、日本の野球全体の将来や可能性にかかわっている。 ところで、来年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表監督の話が早々と出ているが、現体制のままというのはどうみてもおかしい。大きな問題点を抱えての完敗であった以上、新たな体制、新たな考え方のもとで取り組むべきだ。そして、監督選びに際しては、人気や注目度ばかりを考えないでもらいたいと言っておこう。 |