日本男子プロテニス界の第1人者、錦織圭が戻って来た。アメリカ、ジョージア州サバンナの大会で、文字通り圧倒的な強さで優勝を飾ったのだ。 5月3日から9日まで行われたこのチャレンジャー大会は、主に世界ランキング100位−300位の選手達が参加する登竜門的な大会である。この大会、錦織は2回戦の第1セットこそ6−7のタイブレークで落としたものの、他の4試合はすべて2−0のストレート勝ち。準々決勝は6−2、6−1、準決勝は6−1、6−1、そして決勝も124位の相手に6−4、6−0と圧勝し、「本来のレベルに戻った錦織には歯が立たない」と言わしめたのである。 錦織といえば、2008年2月、フロリダ州のデルレイビーチの大会で、1992年に松岡修造が韓国オープンを制覇して以来16年ぶりにATP(男子プロテニス協会)ツアーで優勝。その後、8月の全米オープンでは当時世界ランク4位のダビド・フェレールに3−2の逆転勝ちをおさめ、16強に進出し、プレーヤー相互の投票によるこの年の最優秀新人賞に選ばれた。翌2月の世界ランキングで56位まで順位を上げたが、この時、錦織はわずかに19才であった。 Air−Kと呼ばれる空中でのフォアハンドや正確なストローク、アイディア溢れるショットで知られる錦織は、2008年の6月、当時世界ランク2位のラファエル・ナダルと対戦して1−2で破れたものの、ナダルをして、「数年後には世界10位、あるいは5位に食い込んでくるのは間違いない」といわしめたほどの逸材である。 まさに順風満帆に見えた錦織が表舞台から消えたのはちょうど1年前、2009年の5月である。右肘の軟骨損傷とその後の手術で、ツアーにも全く参加できなくなった。錦織はリハビリ、筋トレと練習に励みながら、復帰に備えていたが、優勝後、本人がブログで「うれしくて泣きそう」と報告していることからも、この約1年はさぞかし辛かったに違いない。 小学生時代、国内のジュニア大会を総なめにした錦織は、未来のプロテニス選手育成のために松岡修造が立ち上げた、「修造チャレンジ」の強化合宿に呼ばれた。さらに元ソニーの盛田正明氏主宰の盛田ファンドにより、13歳の時、単身でフロリダ州にあるニック・ボレテリー・テニスアカデミーに留学。シャイな性格の上に、一言も英語が話せず、からかわれたり、怒られてもその理由さえ理解できず、日本食が恋しくなるなど、海外生活特有の苦労をずいぶんしたようだ。しかしながら、その後もフロリダを拠点に単身で転戦を続ける錦織は、その身体的な能力と共に、精神的なタフさ、英語力、国際感覚という、世界の頂点に立つ要素を持ち合わせていった。 今年の2月23日、錦織の復帰第1戦は、あのデルレイビーチ。1回戦で世界ランク40位のドイツ選手と当たり、善戦しながらも1−2で破れた。その後は4月12日からのルイジアナ州バトンルージュ、19日からのフロリダ州タラハシでのチャレンジャー大会で2勝ずつをあげ、準々決勝進出。筆者はバトンルージュの大会を観戦した。この日はお世辞にも本調子とは言えなかったが、本人によればこの時点ですでに手応えをつかんでいたようである。 そして1週間おいて、クレーコートに備えた練習を積んで迎えたサバンナであった。一部のファンの間で「錦織超特急」と呼ばれている通り、決勝の第2セットと準決勝は、1セットあたり30分以下、まさに「あっという間」に勝負をつけてしまった。相手が少しでも窮地に陥るとかさにかかって畳みかけ、相手がラリーに持ち込む前に決めてしまうその破壊力は、やはりレベルが違うと感じざるを得ない。 一時はランク外まで落ちたATPの世界ランキングでも、2回連続の準々決勝進出で649位まで戻り、今回の優勝で、345位にまで上がってきた。 チャレンジャー大会は、この季節、世界中で毎週4〜5大会が行われている。前の週に南米エクアドルで行われた、マンタ・チャレンジャーでも現在世界ランク152位、日本人最高位の添田豪が見事な優勝を飾っている。 今週、残念ながらデビスカップでオーストラリアに破れた日本チームには、添田(25才)のほかにも杉田祐一(21才、192位)と伊藤竜馬(21才、272位)が参加しており、弱冠20才の錦織の復活で若手プレーヤーの間にも相乗効果が出るに違いない。これら将来有望なプレーヤーにも、日本のテニスここにありというところを見せてほしいところだ。 サバンナで優勝したあと、錦織はフロリダ州、サラソタのチャレンジャー大会に出場する。その2週間後にはグランドスラムの一角である、全仏オープン(出場は未定)が控えている。負傷以前のレベルを越える、錦織圭の新たなステージへの飛躍を期待することにしよう。 |