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vol.478-1(2010年2月8日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

あの横綱が残したもの

 横綱朝青龍の引退にはさまざまな反応があった。当然とする意見が多いのはもちろんだが、「残念」「もったいない」という声も少なくなかった。「引退はしょうがないが、あれだけ強いのだから、もっとやってほしかった」ということだ。

 私としては、そうした受け止め方は理解できない。引退は当然で、むしろ遅すぎたとしか思わなかった。確かに並外れたスピードやダイナミックな取り口は魅力的ではある。とはいえ、唐突な退場をもったいないとも残念とも感じなかったのは、この力士のふるまいにスポーツマンシップが著しく欠けていたからだ。

 ルールを遵守し、それぞれの競技が培ってきたマナーを大事にし、どんな状況でも力を尽くし、激しい戦いの中でも相手への敬意は忘れず、試合が終われば大げさに勝ち誇ったり悔しがったりせずに健闘をたたえ合う。ごく大ざっぱに言えば、スポーツマンシップとはそういうことだろう。どんなスポーツにも、もちろん人気のプロスポーツたる大相撲にも共通することだ。スポーツマンシップに欠けた試合や戦いなど、スポーツの名に値しない、ただの争い、けんかのようなものと言わねばならない。

 で、朝青龍はどうだったのか。巡業に関するルールを破って出場停止処分を受けた。土俵上のガッツポーズに象徴されるように、長く培われてきたマナー、しきたりも半ば無視していた。本場所の土俵では、勝負が決まった後に危険なだめ押しやひざ蹴りを繰り出す有様で、相手をにらみつけて小競り合いになりかけることもしばしばだった。稽古場では不必要な大技で相手にけがを負わせたりもしている。つまりはスポーツマンシップに反する行動ばかりということだ。

 頂点に立つ者は多くのファンの注目を集める。よりいっそうスポーツマンシップを心に刻まねばならない立場だ。まして、その長い伝統の中で特別な品格さえも求められるようになっている大相撲の横綱である。朝青龍のふるまいは、競技の王者としても、また伝統文化の担い手としても失格と言うしかない。いくら強いといっても、それでは抜きんでた力もすぐれた技も色あせて見えるというものではないか。

 それにしても、師匠といい相撲協会幹部といい、よくもまあこれだけの問題行動を放置してきたものだ。協会は何度も厳重注意などの処分を下しているが、ほとんど効果がなかった以上、事実上の放任と言われても仕方なかろう。結局、相撲界そのものもまた、問題横綱と同様に、スポーツマンシップも品格も持ち合わせていなかったのだと言われても仕方がない。

 もうひとつ、朝青龍のやってきたことは、こんなところにも大きな影響を及ぼしていたと思う。以前にもここで指摘した問題、すなわち「強ければいい」「勝てばいい」とする風潮が、スポーツファンの間に広がりつつある点だ。自分勝手にふるまいながら優勝を積み重ねていく姿は、確かに強烈な印象を振りまいてきた。実のところ、それはスポーツマンシップの欠如の表れにすぎないのだが、その強烈さを異端の魅力として受け取り、「強いんだから、自分の好きなようにしてもいいじゃないか」と肯定するファンも少なくなかったのではないか。

 今回の件に対するスポーツ界の反応の中に、「聖人君子にならないといけないのか」というコメントがあった。もちろん、誰も優等生や聖人君子のようなふるまいなど求めてはいないのだが、スポーツマンシップの欠如をそんなふうに曲げて解釈するようになれば、「強ければいい」の風潮はますます強まるだろう。そうした流れがスポーツ本来の姿をどう変えてしまうかは、考えるまでもない。一人の力士が残していった波紋は、重く深刻な課題をにじませている。

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