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vol.479-1(2010年2月12日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

メダルがすべてじゃない

 バンクーバー冬季五輪は大いに楽しめそうだが、ユーウツなのはまた「メダル」「メダル」の大合唱を聞かされることだ。日本のメダル獲得が一番の楽しみなのはもちろんだが、そればかり騒がれるといささか嫌になる。オリンピックは自国のメダルだけで成り立っているわけではない。

 メダルの価値が高いのは言うまでもない。選手にとって五輪のメダルは何に代えても手に入れたいものだし、競技団体としてはそれが最高の存在証明だ。メダル獲得で注目が集まり、結果としてその競技が活気づくというのも間違いない。それほどの重みがオリンピックのメダルにはある。

 とはいえ、オリンピックとはさまざまな競技のトップ選手が世界中から集まって、持っている力のすべてを出し尽くそうとする、いわば至高ともいえる舞台なのだ。だから、どこをどう切り取っても、思わずひきつけられてしまう魅力に満ちている。すべてが見どころであり、見せ場であると言ってもいい。いつもは味わえない感動、魅力、面白みがたっぷりあふれている、四年に一度の特別な場所。それゆえにオリンピックはこれほど愛されてきた。なのに、「メダル」「メダル」と日本勢の上位争いにしか目を向けないのでは、素晴らしいご馳走のほんのはじっこだけをかじって満足しているようなものではないか。

 だが、おそらくテレビはどこをどう見てもメダルの大合唱を繰り広げるに違いない。どうして、と聞けば、それが視聴者、国民の最大関心事だから、と答えるのだろうが、そうだろうか。これだけスポーツがブームになり、海外の映像や情報も即時に入ってくる時代なのである。どの競技であれ、また日本勢であれ外国勢であれ、もっと幅広く多様に伝えれば、それを歓迎するファンは少なくないはずだ。第一、毎日のように人気競技のメダル候補や最年少選手というような、限られた「話題の」選手の姿ばかり見せられては、せっかくのスターたちの話もすっかり飽きられてしまうだろう。

 メダル獲得でなくても、快挙といえる出来事はたくさんある。たとえば、前回のトリノ五輪・アルペンスキー男子回転で0.03秒差の4位に入った皆川賢太郎の健闘。あれほど層が厚く、レベルが高い種目で微差の4位となった滑りはスキー史に長く残るに違いない。また2002年のソルトレークシティー大会では、たった一人で日本のスケルトン競技を開拓した越和宏が、8位入賞をなし遂げている。もちろんこれらもメディアで取り上げられはしたが、もっと大きく、詳しく語られ、伝えられるべきものだった。少し視野を広げれば、輝きはいくらも見つかるのである。

 一方、JOCや各競技団体の幹部がメダルのことばかり強調するのにも疑問を感じないではいられない。スポーツ界にとって五輪のメダルがきわめて重要なのは先に触れた通りではあるが、それがすべてと言わんばかりのこだわりようは、スポーツという文化に携わるものとしてふさわしい姿勢とは言えない。実際、メダル至上主義とも言われかねない方向性は、さまざまなゆがみも招くだろう。そうした行き方は、スポーツ本来の精神を置き去りにしているようにさえ映る。

 バンクーバー冬季五輪に赴いた日本選手団の橋本聖子団長は、メダル数の目標を聞かれると、「過去最高の長野を目標に」と答えているが、その一方で「みなが一番高いところを目指している。個数を決めるなんて、できない」「選手が実力を発揮してくれればいい。結果は後からついてくる」などとも語っている。夏冬7大会に出場し、誰よりも五輪のこころを知り尽くしているアスリートならではの言い方だ。メダル○個獲得などと派手にぶち上げて、数にこだわるような真似はしたくないという、スポーツ人本来の思いがあるのだろう。

 せっかくの夢舞台である。日本勢やそのメダルにばかりこだわらず、オリンピックのすべてをじっくり味わいたいものだ。

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