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vol.503-1(2010年9月17日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「当たり前」を忘れまい

 「当たり前のことじゃないか」と、常識的にものを考える人なら思っただろう。なのに、その当たり前の結論を出すのに国を二分するかのような大騒ぎがあった。「いったい何をやってるんだ」と首をかしげずにはいられない。もちろん民主党代表選のことだ。

 不毛の選択と言わざるを得ない。どちらも支持できないというのが、大多数の国民の思いだったように思う。ただし、資金管理団体をめぐる問題によって元秘書らが逮捕、起訴され、自身も検察審査会の審査によって訴追の可能性を残している人物が、一国のリーダーにふさわしいわけはない。嫌疑不十分を潔白と言い換え、明確な説明もしない人物に、実質的に首相を選ぶ選挙に立候補する資格はない。法的な決着もさることながら、政治家、あるいは議員たるものは本来、そうした立場に立たされただけでも一線から身を引くべきではないか。となれば、まずはそちらが否定されるのは当たり前のことだ。

 だが、選挙戦で熱烈に待望論が語られ、投票結果でも議員票がほぼ互角だったところをみると、その当たり前が政治の世界、民主党議員たち、また一部識者やジャーナリストの間では当たり前ではなかったようだ。おかしなことと思わずにはいられない。そんなに単純ではないのだという反論があるだろうが、いやなに、当たり前の常識が単純素朴に通用しないようでは、この社会は成り立っていかないのだ。

 このことに限らず、どうも近ごろは当たり前の常識から外れる出来事が多いように思われる。というより、意識的に「当たり前」を否定する考え方も少なくないようだ。常識なんぞにとらわれていては新しいことなどできないというのである。

 それはちょっと違うだろう。ここでいう「常識」とは、いかにも古い因習や陳腐な決まりごとのようなものではない。いわば「多様な人々が形づくる社会が、できるだけ円滑に進んでいくための基本的な考え方」とでも言うべきものだ。民主党代表選でしばしば出てきた言葉を借りれば「原点に戻る」という意味も含まれているであろう。常識、当たり前のこととは、最も大事な基本であり、すべてのスタート地点でもあると思う。

 スポーツの世界でも同じことだ。「常識的に考えればいいのに」と首をかしげることが少なくないのである。

 たとえばオリンピック。巨大化し続け、豪華になり続ける路線や、大都市に偏る開催地選び、またショー的要素ばかりを重視する新種目選定などが、オリンピック本来の常識、原点、当たり前の姿に沿ったものなのかどうか、ちょっと考えてみれば、そのゆがみやずれがすぐにわかる。なのに、常識に立ち戻ろうともせず、修正への努力や模索を怠って、ビジネス至上のゆがんだ路線を突
っ走っているのが現在の姿というわけだ。

 大相撲も典型的な例だろう。国技、相撲道の美名の陰で、およそ常識外れの乱脈が続いていた。時に原点をかえりみる姿勢が少しでもあれば、今日の窮状はなかったかもしれない。まさしく「角界の常識は世間の非常識」である。

 プロ野球にも同じことがいえそうだ。球界全体の繁栄という原点、当たり前のことをまず第一に考えれば、何をどうすべきかは明らかなのに、その常識がとかく隅に押しやられがちで、当然のことながら改革はなかなか進まない。

 スポーツメディアもそうだ。一部の人気競技のスターに偏った伝え方などが、本来のあり方とかけ離れているのは明らかなのに、原点をかえりみようとする姿勢はあまり見られない。そこで本来あるべきスポーツ報道はどんどん消え去りつつある。

 常識的に考える、また原点に戻るということが、口で言うほど簡単ではないのは言うまでもない。だが、その一方で、当たり前の常識が無視される社会は、いずれ何らかの形で行き詰まり、崩壊に近づいていくのも明らかだ。せめてスポーツは、当たり前のことが当たり前のように行われる世界でありたい。

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