原発から10キロ圏内。避難先から帰れない帰還困難区域や居住制限区域の家屋の庭に、こいのぼりを見ることができた―。
65回目の「こどもの日」を迎えるGWがスタートする4月末。私は母校・原町第二中学校に出向いた。懐かしい思い出が次々と甦る。約50年前当時、近くには鉄筋コンクリート造り、高さ約200メートルの「無線塔」がそびえていた。1923(大正12)年の関東大震災の際は、いち早く世界に打電したことでも知られている。
私の思い出としては東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年だった。6月に起こった新潟地震のときは、円錐形の塔が左右に大きく揺れるのを教室から眺め「倒れてしまう!」と恐怖心を抱いたことを思いだす。その無線塔の周辺には進駐軍が使用していた朽ちた兵舎があり、初めて洋式トイレを目にした私たちは“腰かけ便所”と呼んでいた。
中学時代、テニス部員だった私は仲間と無線塔の周りを走り、米兵たちが興じていたコンクリート製のテニスコートで練習。疲れると草むらに寝転がり、野イチゴ・木イチゴ・桑の実などを摘んでは食べていた。
しかし、半世紀後の現在はそのような牧歌的な光景は見られない。木造モルタル校舎は鉄筋造りとなり、1921(大正10)年に建築された無線塔は老朽化のため32年前に解体。近くの国道6号線沿いには道の駅ができ、テニスコートやバレーコートは単なる広場になった。
そして、3.11後はさらに一変。校庭跡地には仮設住宅が設置され、3年目のこの春にはようやく屋内の遊び場「わんぱくキッズ広場」が建てられた。住民から「子どもたちが外遊びする場がない」といった苦情が出たため建設されたのだという。
「今までは放射能が怖くて、なかなか外で遊ばせることはできませんでした。でも、屋内の遊び場なら安心です。土曜や日曜は中学生がきて混むけど、平日なら夕方まで自由に遊べますから・・・」
元気に走り回る園児を見つめ、そう語る若いお母さんの話に頷きつつ、私は知人と顔見知りのお母さんが子育て時代によく口にしていたという言葉を思いだした。彼女は子どもを抱き「高い、高い」をしながらいっていた。
《キリンさんのように大きく、ゾウさんのように強くなって、パンダさんのように人気者になあれ―》 原発禍の故郷に留まり「自己責任の生活」を強いられるお母さん・お父さんたちもまた、以上のような思いを込めて子育てをしているのではないだろうか・・・。
いつものように実家近くの南相馬市スポーツセンターに行く。テニスコートでは、テニスクラブの人たちがプレーしていた。話しかけると世話人の83歳になるAさんが、汗をぬぐいながら応じた。
「まあ、市は除染もしてくれたし、去年の夏に張り替えた人工芝のコートはいいよ。昨日の夜は好物のタケノコ飯をいただいたし、いうことなしだ。放射線量? さすけねえ(大丈夫だ)。去年までは(1キロ当り)100ベクレルが基準値で、それ以上は食うなといわれていた。それで今年はどんな理由なのかわからんが、厳しくなって基準値は50ベクトルになった。でも測ってもらったら10ベクレルだった。まあ、私ら年寄りは放射能を気にしてもしょうがねえ。こうして仲間とテニスができればいいんだ。血圧も普通だな・・・」
テニスコートの隣には、県立小高工業高校の仮設校舎がある。ちょうど体育授業で生徒たちのランニング姿を眺めていると、指導教員は3月まで双葉翔陽高校野球部監督だったHさんだった。双葉翔陽野球部は昨年夏限りで休部となった。3年生が引退した後、1・2年生部員は3人になったからだ。久しぶりに会ったHさんは語る。
「たった3人では野球はできないし、新入生も少なかったため新入部員を募ることはできなかったんです。残った3人は去年の夏過ぎから陸上部に1人、残る2人はソフトテニス部に入りました・・・」
この4月に小高工業高に転任したHさんは、野球部顧問となった。 少年時代によく海水浴をした北泉海岸に行った。すでに瓦礫はかたされているが、津波で樹齢100年以上の松林は1本も残すことなく流失。キャンプ場もシーサイドパークも破壊され、海岸から2キロ以上離れた内陸部まで津波は容赦なく押し寄せ、田畑や家屋は壊滅状態となった。多くの人が海に消えた。
毎年夏、この北泉海岸ではサーフィンの世界大会などが開催されていたが、当然のごとく3・11後はサーファーの姿は見ることができなかった。が、昨年夏頃から姿を見せるようになり、私が訪ねた日は6人ほどのサーファーが楽しんでいた。声をかけると、地元のサーファーのKさんが説明してくれた。
「今も測れば砂の放射線量は1キロ当り10〜20ベクレルもあり、海水浴場における国が決めた基準値を上回っています。そのためサーフィン協会は『自粛して欲しい』と。でも、そんなにやりたいのなら、あくまでも『自己責任でやるべきだ』とね・・・。
もちろん、3・11後はだれも海には近づかなかったんですが、一昨年の1年目のときにぼくら地元のサーファーを始め、全国からサーファーが集まってくれた。犠牲者を弔うため、お坊さんを呼んで慰霊祭をしました。それで昨年春頃だったと思うんですが、住民の人たちが海に近づくには、まずはサーファーに戻ってきて欲しいと。そういった話もあって、この辺でサーフィンをやれるのはここくらいですからね。だから、この夏あたりからはけっこう全国からサーファーが集まってくると思うんです・・・」
海岸には慰霊碑が立っている。私は両手を合わせた。 |